第二部 い紅い朱い彼女

四章 ディキリアの棘

05

「メアリ」
 名前を呼ぶ。いや、呼んだわけではないのだけれど、彼女はくるりと振り返って私を見た。穏やかな瞳と合致する。一瞬、その目に動揺が生れた気がした。何事もなかったかのように彼女は小首をかしげて尋ねる。
 まだ、早いのでしょうね。
「いかがいたしましたか、陛下?」
 無垢な瞳。何も知らないように、とそう生きてきたはずのその瞳。彼女は私の血を知っている。私が流した血や、私以外の者が流した血の意味を理解してそれでもなお、何も知らない瞳で純真なそれで何の衒いもなく見つめるのだ。
 メアリエル・リザフォード。
 中流貴族リザフォード家の次女として生を受け、王城に上がると同時に二つ目の名前を失い、皇女に仕えることが決まる。それは中流貴族であり同時に外来貴族でもあるリザフォード家ではありえないほどの大抜擢であり、一時は彼女も相当非難されたようだった。まだ何も知らない幼い頃、彼女が実際に暴力を振るわれていたところを覚えている。それが許せなくて切り捨てたことも。
「たかが成り上がりの中流貴族の娘なのに、何故あなたみたいな小娘が王城に上がることができたのかしらねえ」
「私の娘のほうが何倍も美しく優しい賢い子でしたのに……」
「あら私の娘のほうがまだまだ役に立てましたことよ。こんな赤い髪の小娘なんて物珍しいだけじゃないの」
「きっとほら、ご夫人が取り入ったのよ、あのシャルロット姫に」
「まあ、なんて狡賢いのでしょうねえ。姫様もこんなわけの分からない娘なんて必要ないでしょうに」
 そう上から降ってくる言葉に彼女は答えることはなく、腕に大きな箱を捧げ持ったまま目を伏せていた。この苦行が終わるまで黙って耐えることに慣れている様子だった。
 耐えさせていた、のだ。
「あら、ねえメアリエル。その腕に持っているものはなあに? 私たちに見せてちょうだいな」
 びく、とその小さな肩が跳ね上がる。同じように私の心臓も跳ね上がった気がした。女たちのその声。悪意に満ちた恐ろしい声だ。そっと彼女たちの顔を柱から窺うと、白く塗りたてられた顔に醜悪な笑みが浮かんでいた。こんな顔を向けられていたのだ。
「申し訳ございません奥様。こちらは姫様のためのお召し物でございます。ご容赦願えますか」
 怯えわずかに震えた声だった。けれど言葉遣いは確かに皇女付きの侍女としては相応しく、それが余計女たちには気に食わなかったようで一瞬その場に冷たい空気が流れる。次の瞬間彼女たちの眦が吊りあがった。
「中流貴族の娘が私にご容赦願えますか、ですって? あなたごときの願いごとなんて、私たちには関係がないのですよ」
「ほら、その手を放しなさい。いつまでも薄汚い手で姫様のお召し物を掴んでらっしゃらないで、汚らわしい」
「早く寄越しなさいな。私が持っていって差し上げましょうねえ」
 ねっとりとした甘い毒蛇のような声。それでもメアリは必死に奪われようとする箱を掴んでいた。不意にその彼女の赤髪がはねて少女は倒れこむ。メアリをその扇で殴った女はあらまあ、と眉をしかめて嘲笑った。
「やあねえ座り込んじゃって。汚らしいわ。早くどこかにいっておしまいなさい」
「お返しください。それは姫様のものです」
「まだ言うのかしら。汚い子」
 言いながら女はもう一度扇を振り上げて、私はやっと声を上げる。
「どういうことか、お伺いしてもよろしいでしょうか。ローシェス侯爵夫人」
 あまり、よく覚えていないけれど、確かウィルはその場にいなかったように思う。だから私が言葉を発するのに臆していたのだと今はそう思える。
「こ、これはこれはシャルロット様。ご機嫌いかがでございましょう」
「そんなことはどうでもよい。ローシェス侯爵夫人、アストル子爵夫人、フィルエル侯爵夫人。私の侍女に何か問題でもございますか?」
 そういって私はメアリの腕を掴んで彼女を立ち上がらせた。何が悔しいのか分からなかったが、私はそのときただ悔しかったのだろう。彼女を馬鹿にされたこと、如いては私を馬鹿にされたこと。
 黙りこくった女たちを見つめ、私はメアリを引き連れて歩き出した。
「あなたがたとはお話が合いそうにはありませんね」
 それから何を言ったかは忘れてしまった。だがその件のおかげで、メアリエルという一人の少女の認識を改めることになった。
 恐怖に屈さない少女。
 それは私の憧れでもあり同時に目標であったから、彼女に対して私は尊敬を抱くようになった。二つ上の少女。年齢もその赤毛だってうらやましいと思ったことがある。酷い言い方をしてしまったけれど。
「メアリの赤髪は、いいわ」
「どうしてですか? 私はシャルロット様の白銀の髪のほうが美しいように思います」
「ううん、あなたの赤なら、血がついても分からないでしょう?」
 言葉を失っていた。あのあとそれがどんなに酷い言葉だったかを思い、謝ろうと彼女を探したが見つからなかった覚えがある。翌日、服を着せてくれた彼女の目は真っ赤で、目元はぷっくりと腫れていた。そういう、つもりではなかった。でもそう思ったのもまた事実だったのだ。
 彼女は強い。怯えることを知りながら、そのくせ決して折れないことも分かっている。自分の弱さを自覚した上でその選択をなした。私がどうこう言えることではないと知りながら、けれど醜悪にもその選択をやり直してと迫りたい。どうして選んだの、何故。
 けれど私はそれをしない。そうすることを「氷の姫」は望んでいない。そんな無様な姿を誰にも曝すことは許されない。きっと、だから私のその自尊心ゆえに彼女はその選択をしたのだろう、と今ならはっきりと分かるのだろうけど。
 けれどもう、遅い。
「陛下?」
 困惑した声が聞こえて私はその眼差しを彼女に向けた。身をびくり、と震わせた彼女の瞳には、私はどのように映ったのだろう。向けられた視線は明らかに怯えをあらわしていた。それでもすっと胸を張って姿勢よく毅然と立つ姿は、美しい。
「何」
「ぼうっとなさっていますよ。もう本日の執務は終わったのでしょう? そろそろお休みにならないと」
 平然と返せる彼女に尊敬を覚える。だからす、と目を伏せてぽつり、呟くようにいった。
「ええ、そうね」