第二部 い紅い朱い彼女

三章 シエルタの即位

04

「死者は」
「国民は刃向かった男が一人だけです」
「……そう」
 女王の銀色の長い睫が伏せられる。それがわずかに揺れた気がした。彼女の真横に立つ従者はそれに気づいたが、悲しげに顔を歪めただけで何も言いはしない。
 襲撃の知らせから早二日。女王は白銀の鎧セストを身につけて、戦場である市街地にその姿を現していた。激しい攻防戦が一時中断し、否応もないほどの緊張感が沸き起こったその瞬間。彼女はまるで天から舞い降りた女戦士、いつかの英雄のように突然光臨したという。人質となった市街地の住民だけではなく彼らを取り戻そうと闘っていた戦士たち、そしてトルスの賊までも、彼女のその姿に一度武器を取り落とした。
 その、あまりにも輝かしい存在感。
 その、放たれる強烈すぎる威圧感。
 その、白銀の鎧は陽を照り返し、視線を奪われる。
 けれど本人はそれをなんとも思っておらず、むしろそれでは駄目だ、と低い声を漏らす。それでは駄目なのだ。まだ足りない。私には、私が現れただけで逃げ出すほどの力が存在しない。
「その者以外の八百九十二人は無事、とそう考えていいのね」
「は」
「嘘でしょう」
 使者の言葉を遮って天幕の中に入ってきた男は言う。その姿を見て私はわずかに安堵した。
「クライド卿。あなたは確かローインにいらっしゃったのでは?」
「我が君がお困りだと窺ったものですから、駆けつけた所存にございます」
 彼はそう言いながらその場に跪いて、いつも通りの儀式を流すようにして行う。クライドが立ち上がるのを見つめながら、私はそれに答えこくりと頷いた。
「ええ。それで、嘘とはどういうことなのでしょう」
「そのままですよ。嘘、というより我が君のお耳に拝聴していただくことに罪悪感がある。違うか?」
 尋ねられて使者はびく、と一度その肩を大げさなまでに動かした。予想していたことだがやはりその仕草に、落胆を覚えずにはいられない。希望を持たせておいて踏みにじるのは醜い。また、それを知りながら期待をするのも、同じことだ。
「申し訳、ございません」
「答えなさい。人質はどこに。そもそもトルスの賊はどこにいるのです。私は先日この地に足を踏み入れましたが丁度あの時以降、賊と見られる人間の姿を見ていない」
 使者は深く頭を下げて搾り出すように声を上げた。
「賊は今、シエルタでは有力の貴族十一人を引き連れて、領主の館に引きこもっております。数人が重症を負い、無事だと思われるレイセルトよりの館にて看護を受けています。それ以外の庶民はみな、三々五々に……」
 今にも泣き出しそうな引きつった声になっていた。考えるまでもなく、それは当然自分の家族や友人が不安だからだろう。使者は人質から逃れた者、また賊が選んだ者が王城へ寄越される。自然、自分の顔が歪むのが分かった。愚かだ。愚かなこと。
 トルス。
 我が義兄ベアードの半分の血。彼の半身。大陸連合組織フィントールから遠ざかりつつある帝国。何を企んでいるのか図らせないその藍色。高貴なる紫と藍を惜しげもなく曝し、この大陸を統べるのは誰か、とまるで問うかのような、旗。
 思い起こせばシエルタに入ったあの日、はためいていたのは何色だ? その色は、それは。
「……無礼な」
 不意に目頭が熱くなる。怒りがどこからか湧き上がるのを知覚する。何故私は怒りを覚えているのだろう。そう冷ややかな声が呟いて、痛いほどの苦痛を混ぜた言葉が返す。
 私の一部なのだ。
「ウィル」
 横にいる言葉を発さずに黙す従者の名を呼ぶ。彼はその翡翠の瞳をこちらに向けて、一瞬言葉を忘れたように押し黙る。彼の瞳には、どんな私が映っているのだろう。鎧を身に纏ったただのシャルロット? 沈痛な顔をした幼い少女? それとも、セストの威光を抱く険しい顔の英雄?
「あなたに数人兵士をつけます。逃げ出した住民を引き連れてレイセルトに向かいなさい。向こうに難民を受け入れるよう連絡をいれておきました」
「かしこまりました、陛下」
「クライド卿。あなたは、私と共に闘ってくれるのでしょう?」
「当然です、我が君」
 すっと腰を折って男は礼をする。それを眺めながら、私は自分の中の何かが熱くなっていたことを知らない。私、という人間が、何に対して凍りついた心を溶かすことができるのかを、私は分かっていないのだ。
 今、沸き起こるこの憎悪が何か、私には分からない。

 夜が明ける。琥珀色の髪の従者は兵士を数人引き連れて空が白くなり始めた頃、静かに天幕から出て行った。その後姿を見つめた後、女王は寝る間も惜しんで戦いの準備をしていた兵士を振り返る。筆頭に跪くクライド卿、そして彼の部下たち、一般の兵士たち。
 私が下す指示一つで、彼らはそのまま目覚めないかもしれない。
 そうするわけにはいかない。誰一人として欠けることなくこの土地を守り抜く。それができるのは、私。
 一度目を瞑る。そして静かに開き、出したことのない冷たい声が空気を貫いた。
「我が民よ。私が必ずあなたがたを救うと誓う。
 共に、闘ってくれますね?」
 シエルタ郊外にて、鬨の声が上がる。

 そこに立つのは、光り輝く女神のようだった。
 いつか、その戦場にいた者はそう語る。幼い孫に、夢でも見たかのように恭しい眼差しを向け。
 シャルロット女王があの丘――あそこのほら、あの小さな丘があるだろう?――に現れたとき、私はどうしても、動くことができなかったんだよ。
 どうしてかって? それは、そうだね。
 あまりにも神々しかった。彼女の存在だけが太陽に照らされて、天から授かった鎧セストが輝いて、その深層の海のような視線が土地をなだめるように見つめたんだよ。手に抱く名もない剣が翻って空に臨むように険しい瞳で、あの方はおっしゃった。
「トルスの賊よ。そなたたちに、何も知らぬ愚かなお前たちに、その紫紺の旗を掲げることは許されない。
 その身をもって、我が英雄の怒りを受けるがいい」
 あの泥まみれの鬱屈とした暗い戦場の中で、彼女が身に纏う白銀と白き刀身を振るうたびに、まるで迅雷が駆け抜けるようだった。圧倒的な、力。
 きっと、あれこそを王、と、そう呼ぶのだろうね。
 もう、今はどこにもいないけれど。
 今はただ、「白き人」と、そう呼ばれているけれど……。
 シャルロット・フィオラ・イチェリナは、間違いなく我らの王だったのだよ。