第二部 い紅い朱い彼女

三章 シエルタの即位

03

「おはよう、シャルロット」
 女性らしい艶やかな声に振り返ると、案の定満足そうに微笑むレティリアが立っていた。当然のごとく美しく着飾っているが、彼女の腹はわずかに膨らんでいた。そのどこか神聖な姿に一瞬息を呑む。新しい命を持つ人はこんなにも美しいものなのか。
「おはようございます、叔母様。……お子さんも、おはよう」
 そういって叔母の腹に触れる。侍女が一度制そうとしたが叔母はそれを止め、やわらかに微笑んだ。この温かいお腹の中にいずれ自分と同じ立場になるものが、羊水に包まれて眠っている。それはとても不思議なもののような気がした。
「如何いたしましたか」
「見立てたドレスが似合っているか確認しにきたのよ。うん、問題ないわね。さすが私」
 にっこりと彼女は笑って私の姿をじっくりと見つめた。
 純白の髪を複雑に編み上げて、首筋には滴のような小粒の金剛石が連なり、白い肌を細やかに煌かせる。ゆったりとしたローブは王の証の静かな黄金に輝き、比類ないほどに優美だった。一片の穢れのない白のドレスとその白い全ての中で、深海の瞳が銀色の睫に縁取られ、触れることを拒絶するかのような潔癖さを感じる。
 レティリアは内心そんな彼女の姿に舌を巻いていた。シャルロットというこの少女は、いつの間にか完璧に王としての威厳が体に根付いている。これほどまでに王に相応しい少女はいない。
「そう、でしょうか」
「私が言うのだから間違いないわよ。メアリ、準備は整ったの?」
 レティリアの声にメアリはびくりと肩を動かし、そして手にしていた絹の手袋を恭しく私に差し出した。その眼差しは畏怖と。
 私はそっと薄い笑みを口元に乗せた。それに気づいたメアリは驚いたように私の表情を凝視する。その目は何かを訴えているようで同時に何かを隠したがっているようにも見えた。それに気づかないふりをして、私はそうっと言葉を落とす。
「ありがとう、メアリ」
 いつも喉の中で滞って言えない言葉を吐き出した。目の前の赤髪の侍女はその目を大きく見開いた。こぼれそうにその目が揺れ動く。
 それを聞いていた叔母は何も言わずにうっそりと微笑んで、私を促した。
「行くわよ、シャルロット。あなたの国民が待っているわ」
 そう、今日が、私の即位式だ。

 即位式は城の中の大聖堂で行われる。広く常に手入れの施されているそこには、信じられないほどたくさんの人間が集まっていた。それをまだ見てもいないにも関わらず、扉一枚先から感じることができる。たくさんの人といっても、新王の誕生に立ち会えるのはどう足掻いたところで貴族階級の者か、聖職者のみだ。一般の人間は立ち入りが許可されておらず、護衛にあたる者も皆一様に貴族階級のものばかりだった。
 扉を見る。この一枚先に、あれほどまでに望んだものがすぐ側に。
 それに何らかの感慨を抱かなかったわけではない。むしろ巨大な感情の波が押し寄せて息苦しいほどだった。
 だけれど、今は。
 その押し寄せてきた強い感情は、漣のように静かだった。揺らぐことなくただ沈黙を守り、私の感情は凪いでいる。
 ふ、と笑みが唇に浮かんだことを、私は気づかなかった。隣にいるウィルがわずかに身構えたのを感じただけで、何も気づかずに前を見据えていた。
 深海の瞳は全てを貫くように、目の前に立ちはだかる白の扉を、否、その奥に立ち尽くしている人々を見つめているように、超越した眼差しをしていたから。
 彼らは「私の国民」ではない。
 シャルロット・フィオラ・イチェリナの愛すべき国民だ。
 高らかにファンファーレが鳴り響き、私の夢想は打ち破られる。不意にくっと背後から袖を掴まれ、驚いて振り返るとウィルが縋るような難解な視線を私に送っていた。そっと唇に脆弱な笑みを浮かべ、頷く。大丈夫、大丈夫よ。
 ウィルに、伝わったのだろうか。彼は口をきつく結んで、頷くとその手を放した。
 巨大な白い扉が開かれて赤い絨毯と、微笑む人々が視界に入る。修道女に導かれるようにして、その道を進んだ。回りを見もせずに白銀の少女は、その鋭い氷のような眼差しを真っ直ぐに玉座に向ける。いつか父が、そして兄が座っていたその場所。栄華と頂点の証にして、すべてにおいて唯一の。
 三年、否違う。もっと前からだ。私は兄が即位する以前よりあの場所の意味を理解していた。いずれ私が手に入れて、そして。
 玉座の前に辿り着く。楽隊の奏でる音が止み、ゆっくりと痛いほどの沈黙を与え始めた。その中にこの国で王族の次に高い位にあるサルサ老師の声が、低く染み込むように響く。
 王冠を授けるのは本来母がするものだった。代わりに私の前に立つのはレティリア。輝かしい黄金の王冠をその絹の手袋に包まれた手で彼女は恭しく捧げもち、私の顔を見て微笑んだ。何も言わない。
「レティリア嬢、新王に戴冠を」
 サルサの声に彼女は頷き、私は静かに跪き頭を垂れる。そして、ゆっくりと乗せられる重み。
 これが、王の重み。
 父が、兄が、そして遥か遡ればイエラという英雄が受け継いだ、命よりも大切なもの。大切で、そしてずっしりと重いそれ。
 立つように言われ静かに立ち上がり、レティリアの瞳と合致する。強烈なまでに輝くその目の言わんとすることは理解していた。だからするりとそれから逃れるように、人々の方を振り返る。
 立ち尽くす脆弱な人間達は、その深い深い深淵の海の視線に飲み込まれたように錯覚するほど、彼女の眼差しは強かった。たかがシェマの少女なのに、されどその瞳に宿る叡智は既に成熟しきった大人のもの。王冠を抱き毅然と立つ彼女の小さな肩は、けれどただ圧倒的な存在感を放ちそこにある。人を寄せ付けないほどに全てから超越した、そんな印象を受ける少女はそっと誓いの言葉を告げて、躊躇いもせずに玉座に座した。

 誰もが息を呑む美しく硬質的な新王、シャルロット・フィオラ・イチェリナが、遂に誕生した。


 不意に連絡口の扉が大きな音を立てて開かれて、どこからかの使者が入ってきて切羽詰った声を上げた。
「即位式の最中真に失礼いたします! トルス帝国の賊がわが国のシエルタの市街地に入りました。領土の返還を求めて武器を持ち、住民を人質に市街地に立て篭もっています!」
 一瞬にしてその場に緊張感が走った。危惧していたことが実現したことに新王はわずかに顔を歪め、けれど即座にきっとそちらに視線を向ける。強烈な視線に使者はびくりと体を大仰なまでに動かす。それほどまでに彼女の視線は強かった。
「賊は何名」
「詳細は分かりませんが十数名と見られます」
「ウィル、メアリ、セストの準備を。ガレス卿、アーネスト卿、クライド卿、ダスティン卿、来てくれますね」
 そう矢継ぎ早に指示を下しながら彼女は、隣に立っていたレティリアに王冠を預けるとそのまま歩き出した。サルサ老師が驚き声を上げる。
「シャルロット嬢、そなたが行く必要はない。四卿で十分なはずじゃろう」
「いいえ」
 強い声がその場にいる者の耳朶を打つ。誰もがその声に顔を上げた。そして迎え撃つようにして貫かれる、その瞳。
「いいえ。サルサ老師。私はもうシャルロット嬢ではございません。
 イチェリナ皇国の女王として、このような愚行見逃すわけにはいきません。お解りですね」
 強い、強い眼差しに呑まれない人間など、存在しないだろう。
 女王は静かにその薄い唇に小さな笑みを乗せて、メアリから手渡された衣とウィルから差し出されたセストを受け取った。
「イエラ・イチェリナに誓う。
 私こそ、彼女の冠名を担う者。
 ……サルサ老師、後はお任せしましたよ」
 そう言い切るとうら若き女王は、迷うことなくその場を立ち去った。