第二部 い紅い朱い彼女

三章 シエルタの即位

02

 夜。
 翌朝の即位式のために、午後の仕事もあまり長々とはできなかったのだが、片付けられるものは全て片付けた。執務室でもう一度書類を見直した後、部屋を出る。ウィルは当然のように私の後に従った。
「お疲れ様です、殿下。これで本日の執務は終了です」
 頷きながら廊下を歩く。人の気配がしない豪奢なそこは、うっすらと冷気が漂っていた。右手にはいつか少女達とお茶会をした庭が、夜を纏った空気とともにただ存在する。あれから三年。そう、三年も経ったのだ。
 不意にカツン、という靴音が響いて、私ははっとして振り返る。離れたところにガレスが佇んでいた。その静かな立ち姿に一瞬誰か分からなくなる。
 青い真っ直ぐな視線が突き刺さる。彼は迷うことなく私のほうへ近づいて、そして静かに跪いた。
「こんばんは、ガレス卿」
 手を差し伸べながら静かに言葉をかけ、同時にウィルに下がっているように視線を送る。彼は一瞬不安げに眉をひそめ、しぶしぶと引き下がった。ガレスはウィルが下がったのにも気づかない様子で、私の手を取りそっと唇が指先に触れる。熱くてかさついているようだった。
「ご機嫌いかがですか、シャルロット殿下」
 応えない。ただ黙って頷くと、彼は一度顔を上げてそれから深く頭を垂れた。
「お聞きしていただきたいことが、ございます」
 遂に、来たのか。
 漠然とそう思う。そっと彼の手が離れた。それに対して冷たい視線を送ることしかできないと、何度も態度で示したのに。なのに何故。何にも与えられない私を選ぶのだ。
 否、与えることはできる。仮初めの地位、仮初めの権力ならば。どうせ一瞬で消えてしまうそれだから、私は誰にもそれを与えるつもりがなかった。
「シャルロット殿下。
 貴殿のことをお慕いしております」
 慕うは親愛、愛すは恋慕。
 いつか父が呟いたその言葉が鮮明に脳裏に浮かぶ。父は誰を愛し誰を慕っていたのだろう。兄は、母は。故人となってしまった彼らを思い浮かべながら、私は頭を垂れる男を貫くような視線で射抜いた。
「それは、親愛ではない、と申すの」
 強張った声になっていた。緊張感のある刺々しい声音に、男はびくりと肩を一瞬すくませる。
 哀れだった。私と彼では対等の場にすら立つことができない。こんなにも私と共に闘ってくれた存在なのに、私はそれに応えることもできないのだ。
「はい」
 簡潔なその言葉にずきりと胸が疼く。ちらりと下がったはずのウィルを見ると、彼は険しい顔をして跪くガレスを睨みつけていた。そのわけの分からない表情を見て、また、喪われたはずの胸の痛みが再発する。
 何故、忘れたはずなのに。
 突然喉が絞まったような感触がして、呼吸が苦しくなりとっさに胸を押さえた。視界の片隅でウィルが顔色を変えたのが分かったが、首を振って制止する。静かに頭を垂れる男に気づかれないように、深く呼吸を繰り返した。
 呼吸がゆっくりと整っていく。目を一度閉じて、また開く。男は何も言わずに私の言葉を待っていた。拒絶を受けると知りながら、何故あなたは私を待っているのだろう。
「私がまだの庶民の子であったとき、貴殿を遠いところで見ていました。届かない存在、届くはずのないところにいる人だと、そう」
 低い声が地から上ってくるようだった。
 彼はそういいながら、けれどその矛盾にも気づいている。届いてはいない。彼はまだ、私には届いていないのだ。
「でも今は。届いてはいないけれど、貴殿に声をかけられる。それだけで、私はとても幸せでした」
 何故、それだけで満足できないのだろう。何故、それ以上を望んでしまうのだろう。哀れみによる痛みが胸を刺す。彼が私に向けられたいと願っている情でないにも関わらず、それは心中をひそかに浸した。
 男はゆっくりとその頭を上げて、真っ直ぐに青を私に突き刺した。曇り気のない澄んだ瞳。この目を最期に見て喪われた命は、一体いくつ存在したのだろう。彼の青い瞳は、まるでこの国の青い空のようだ。愛しくて、決して手の届かない。
 あなたは私に届かない。
 でもそれは私にとっても一緒なのよ。
「そして、もっと強欲になった。貴殿に、触れたいと、願うようになりました」
「……そう」
 言葉を喪ってしまう。あなたの優しい言葉に強烈な刃を振り下ろすことしかできないのに。なんて、哀れで愛しい。
 そっと男の頬に触れる。ざらりとした肌は、いつも側にある美しい青年のそれや可愛らしい女のそれとは異なっていた。私と同じように、醜い血を見つめてきた男。闘ってこの地位にまで上り詰めた誇り高き男。
 素直な賞賛が心を満たす。彼は、本当に強い。
 だから。
 手を振り上げて、静かにその頬を叩いた。沈黙した廊下にかすかな音が響き渡る。ガレスは半ば予想していたようにそれを甘受し、その長い睫を伏せていた。
「私の答えは、お分かりですね」
「……」
 私は何者にも捕らわれてはいけない。何者にも絆されずただ凍りついて、もう二度と溶け出すことのないように。もう二度と、心が揺れ動かされることのないように。
「あなたの気持ちを、光栄に想います」
 声が震えてしまった。
 唇を一度きゅっと結び、それから男に背を向ける。ウィルが一瞬視界に入ったがそれすらも気にならなかった。付き従おうとするのを制して、そのまま部屋に向かう。
 誰も、誰も触れないで。
 扉を閉じて喉を押さえた。嫌な音がする。喉が誰かに掴まれたかのように苦しくなって呼吸が辛い。今はまだ、何もかもに蓋をして逃げてしまいたい。だから、だからどんな声にも想いにも。
「私は……」
 答えられない。