第二部 い紅い朱い彼女

三章 シエルタの即位

01

「いよいよ、明日、ですね」
 ウィルの少しだけ力の入った声にわずかに和みながら、私は彼から手渡された翌日の即位式の参列者名簿を眺める。人数は三年前のレティリアの結婚式より数百人以上多かった。この人数を制限し、招待状を持たぬ招かざる客を追い出さねばならない兵士達に、哀れみを覚える。私が小規模な即位式を望んでいても誰もそれを許しはしなかった。
「そうね」
 長かった。その思いは言葉にならずに胸に落ちる。けれど彼はそれすらも理解したかのように、静かにはっきりと頷いた。その一連の動作に安らぎを覚え、けれど以前は起こったであろう胸の疼きは起きなかった。それに、ただ深い安堵を覚える自分を知覚する。
「それにしても、多いわ」
 呼ばなくてもいいだろう遠方の貴族の名前まで連なっているのにはさすがに驚いた。三公や十八ある侯爵家に、伯爵家として主となる五伯はまだ分かる。だが遠方のローフェス伯爵や、外来貴族であるハーベルフィクス伯爵が呼ばれる理由はないはずだ。それによくよく見れば分かるが子爵家と、片手で数えられるほど少ないが男爵家までも呼ばれていた。叔母や義兄は気でも狂ったのだろうか。
「まさかウェンリーク子爵まで招かれるとは思っていませんでしたね……」
 子爵家の中で特に出世欲の高い男の名を上げながら、ウィルはわずかに顔を歪めた。切り捨てようにもサルサ老師さえ、この参列者全員に目を通し彼が太鼓判を押したのだ。次期国王がいくらいったところで決して切り捨ててはくれないだろう。
 そう、次期国王。
 私は晴れて明日、国王として国民から認められる。
 十九年。当たり前のように一瞬で過ぎ去るはずのその人生の極一部だけれど、酷く私にとっては長い期間だった。待ち望んでいた本当の最初が始まる。やっと被り続けた仮面の意味を見出せる。
 それほどまでに明日が来ることを望んでいながら、けれど私は同時に小さな不安を抱かずにはいられなかった。招待状を送った参列者の中には、他国と隣接する地方の領主も含まれている。もし彼らが騎士を連れてこちらに出向いたら、何が起こるかなどは一目瞭然だった。特に我が義兄ベアードの半分の母国であるトルスと隣接しているシエルタは、最近ますます治安の悪化が目立っており、どうしても緊張感が拭えなかった。今は肝の据わった貫禄のある男を領主としているが、彼は律儀な男だから恐らく即位式に出席しようとするだろう。そもそも新国王の登場なのだ。欠席するわけにもいかない。
 そこまで考えて、やはり叔母と義兄に参列者の選別を頼んだことをわずかながら後悔する。彼らもその事情は知ってはいるものの、それでも何十年もトルスの賊の侵入を食い止めていた男に何らかの褒美を与えたいと思う気持ちも分かる。さすがに男の名前を見たときはサルサ老師も眉をひそめたが、彼らと同じ結論に至ったのだろう、切り捨てることはしなかった。
「出世をしたければそれ相応の手柄を立てればよろしいのに」
 ウィルの言葉に、ウェンリーク子爵の顔をおぼろげながら脳から引きずり出す。果たして彼と会ったことがあるのだろうか。
「そうもいかないわ」
 イチェリナ皇国は他国と隣接する地域以外、どこも治安の悪化もなく穏やかで牧歌的日々が続いているのだ。それに彼のような男は戦いで成り上がるような人間ではなく、むしろ商業や経済面でのほうが見込みがあるといえるだろう。会ったこともないだろう男の経歴を見る限りでは。
「他国との市場を増やす、という叔母様の件は考える価値がありそうね」
 丁度叔母から回ってきた書類には、そういったことについての忠告が書き連ねてあったはずだ。そう思いながらその資料を取ろうとするがあっさりとウィルの手に制され、彼はすぐにその資料を持ってきた。肩をすくめてしまう。
「優秀すぎるのも困りものね」
 私のそっけないその一言に彼は嬉しそうにちょっとだけはにかんだ。少年のような仕草と大人びた顔は似合わないようで、だけれどよく似合ってもいる。
「ウェンリーク子爵にそれを任せるのですか」
「任せられるほどかどうかは叔母様と相談するわ。それと、彼」
 シエルタを任せている領主の名前を見つけ、何となしにその名をなぞる。四十も過ぎた日の焼けた、見るからに屈強そうな男だった。褒美として何かを与えるとしたら、やはり爵位なのだろうか。彼は今男爵。位を上げるのが最も良い手段のように思うが、しかし。
「爵位を与えて、喜ぶような男ではないように思いますが……」
 それが問題だった。彼は爵位を与えられて喜ぶような男ではないらしい。私自身男爵位の人間とはあまり話す機会がなく、よく知らないのだがウィルがいうそれは間違いないことを知っている。ウィルは一度この男と会ったことがあるからだ。
「爵位よりもシエルタ市街地に、やれ教会を作れだの、孤児院を作れだの言ってきそうな根の良すぎる方ですよ、彼は」
 呆れたように言う彼の口調は、けれど男を慕うものだった。それもそうだろう。ウィルを救ったのはこの男なのだから。
「自分が爵位を得て、その増えた金額から教会を作るということにつながらないのが可笑しいわね」
「自分が持っていると使ってしまいそうだ、といっていた気がします。彼は大酒飲みですから」
「酒豪なの?」
「シエルタで開かれている酒豪のための大会、というふざけたものがあるらしいのですが、毎回優勝杯をいただいているそうです」
 くすっと笑いを漏らした彼のその笑みに、心からの安堵を感じる。彼は、今こうやってあのときのことを言葉に出せるほど、回復したのだろう。そうだといい。そんな思いが沸き起こる。
「もう少し、彼のことは考えるわ。彼が領地に戻るのは五日後だったわね」
「はい」
 明日の即位式を除いて四日。男爵である彼と直々に話す機会はできるだろうか。わずかに危惧しつつ、それでもどうにかしようと心に決める。
 そのとき丁度扉がノックされて、顔を上げる。時計を見ると会談の時間だった。
 ウィルはちらりと手元のスケジュールを確認すると、私を見て目で問うた。私は適度に机の上を片付けると頷いた。
 皇女として、最後の仕事が始まる。