第一部 に溺るる死者とに向かう生者

二章 マルドゥブルの花嫁

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 そして、白薔薇の結婚式当日。
 編みこまれた蜂蜜色の髪に添えられた白薔薇、白い顔を優美に魅せる純白のベール。細い首筋には鮮血のような大きな赤いルビーが、まるで打ちとめるかのように存在を主張し、白い肌をなお雪のように輝かせていた。その碧眼は愛しそうにその日を迎えたことの喜びを湛え、わずかに潤ませながら隣に立つ夫にだけに向かれている。それはまた、男も同じ。
 イチェリナ王家の結婚式は、城の裏の小さな教会で行われるのが常だ。その中で眠るイエラ・イチェリナの墓標の前で二人は愛を誓う。
 レティリアとサイラスはそれぞれの親族に見守られながら、まるで惹かれあうように唇を重ねそして誓いの言葉を述べた。美しい叔母の瞳からすうっと涙がこぼれて頬を伝う。それはさながら尊い生命が生れ落ちた瞬間のような歓喜と幸福のようで、それを見つめてしまったことにうろたえる。私がここにいることが、酷く不自然に思えた。
 正式な式を終えあとは新郎新婦が、教会に入れない参列者に礼を言いに行くだけの時点になって、私は部屋に戻ろうとドレスを翻す。この柔らかく優しい空間に在り続けられる自信がなかった。こんなにも幸せなその空気に、醜い嫉妬が溢れそうで。
 私は、誰とも結婚することがなく、誰からも疎まれて、そして。
「シャルロット」
 優しい鈴の音のような声が耳朶を打ち、はっと夢想から我に返り呼ばれたほうに振り向くと主賓である叔母が、華やかな笑顔を浮かべて立っていた。隣には夫はいない。それでも彼女のその幸福そうな笑顔に、私は沸き起こりそうになっていた嫉妬が砂のように崩れていくのを感じた。
「レティリア殿下。とても、素晴らしい式でした」
 穏やかな声が喉からこぼれ出た。そこには優しい安堵と羨望、ただそれだけ。
「当たり前よ。ソフィアの手伝いがあったのだもの。
 それに」
 胸を張って傲慢な少女のように彼女は笑った。
「この私の結婚式なのよ? 素晴らしくないわけがないじゃない」
 迷いのない彼女の口調に私は心からの安堵を覚えた。彼女は大丈夫。きっとこの日を乗り切れる。
 不意に彼女の碧眼が私の眼差しを捉えた。息をするのさえ辛くなるような雁字搦めの瞳。探るようなそれは私にだけ感情を伝えるべく真っ直ぐに想いを乗せていた。それは。
「そうでしたわね。叔母様、マリエッタがお待ちしていますわ」
 先ほどから糖蜜色の視線が絡みつくようでわずかにいらだたしかった。その二つの視線から逃れるためにそう彼女に告げると、レティリアは心友であるソフィアという人が選んだ白薔薇のブーケを、私の手に無理矢理押し込める。
「え、あの」
 押し付けられた純白の薔薇に戸惑う。まさかこれを私に渡すとは思っていなかったのだ。普通ブーケは何より親しい存在や近しいものに、感謝と相手の幸せを願って贈られる。案の定絡みつくような視線が鋭さを増した気がした。
「あなたのものよ。ソフィアから私に、私からあなたに。ね」
 囁くように彼女はそう私の耳元に言葉を残してから、愛する夫を捕まえてマリエッタの元に歩いていった。彼女の視線はすぐに霧散し、私は白薔薇のブーケを持ったまま、少しだけ惑う。
 顔を上げると目の前にウィルが立っていた。王族でも親族でもない彼は教会に入ることを許されていない。その間外で待っていたようだ。私の手の中にある白薔薇のブーケに目を見張る。
「殿下が?」
「ええ」
 呆然とした声になっていたことに気づいて、少しだけそんな自分に驚く。レティリアの行為は、何を示しているのだろう。
 考えても仕方のないことを思い、わずかに苦笑して歩き出す。
「どちらへ」
「部屋に。何かあったら伝えに来て」
「かしこまりました」
 この温かい空気に氷は似つかない。自分がどろどろと溶け出してしまいそうで、すぐにあの冷たい部屋へと戻りたかった。

 部屋は静かで冷たい空気を湛えていた。そんな中、羊皮紙に物を書く音だけが響く。白い髪の少女がドレスから部屋着に着替えて机に向かっていた。
 机の上に蝋燭はない。既に夜になった窓の外の月明かりだけで、黙々と文字をつづる。窓枠にはレティリアの結婚式に使われた白薔薇のブーケが、そのまま花瓶に飾られていた。月光に照らされた花はまるで死者のように白く、けれど聖女のようにわずかに輝いて。
 それを横目で見ながら、少女はその深海の瞳に何らかの強い感情を抱いて、言葉を綴る。
(お久しぶりです。ご機嫌いかがでしょうか。
 レティリア叔母の結婚式にご出席なされていましたね。彼女の白薔薇はとても美しいとお思いになりませんか? 何でも彼女と寄り添うサイラス家嫡子は十八年間想いを募らせていたとか。とても愛しい二人でした。
 そういえばレティリア叔母は私に白薔薇のブーケを下さったのですが、少しだけ申し訳ないように思っています。これは私が受け取るべきではなく、彼女を慕う人に差し上げるものだと思っていましたから、驚きました。
 白薔薇の似合う彼女に憧れを抱かずにはいられません。私は恐らく生涯誰とも寄り添うことなく死ぬのでしょうけれど、それでも彼女のあの笑顔をうらやましいと思わずにはいられませんでした。それも許されないことなのかもしれないのですが。
 彼女のあの笑顔。
 あなたはご存じないでしょうが、彼女の頬には涙のあとがありました。唇は優しい弧を描き、瞳はわずかに潤みどうしようもない幸せを湛えていらっしゃった。
 ……少しだけ、感傷的になっているのかもしれません。お許しください。
 私は彼女がうらやましい。
 正直に言ってしまえば、きっとそういうことなのでしょうね。
 とても素晴らしい式でした。白薔薇のブーケは窓の花瓶に挿しております。どうせすぐ枯らしてしまうのでしょうけれど。あなたに失礼ですね。ごめんなさい。
 あなたに良き日々が待っていますように)
 短いけれど書きたいことは書けたのだろうか。少女はそっと筆を下ろし、視線をはっきりと白薔薇に向けた。開け放たれた窓から冷たい夜の匂いが優しく流れ込む。それに白薔薇は、幸せそうにわずかにその身を揺らした。
 少女の深海の瞳が、柔らかく、泣き出しそうに歪む。
 それを知らずに、月は夜に滲んでいった。