第一部 に溺るる死者とに向かう生者

二章 マルドゥブルの花嫁

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 廊下に出ると付き従っていたメアリが不愉快そうに眉をひそめて、静かな声で吐き捨てた。その様は、私に似ているようで、だけれど仄かに香るあの女の。
「低俗な」
 赤い髪の幼く少女らしい彼女のその顔で、そう吐き捨てるのは酷く可笑しかった。彼女にそんな言葉は似合わない。それでもその言葉の意味は明らかに私を庇おうとする意図のものだから、私もあまり強く窘めることはできない。これが甘えだとは分かっているのだが。
「殿下、何故彼女たちを咎めないのですか」
 不意に背後からそう声が飛んできて、私はそれにひきつけられるように振り替える。そこには不快そうな顔をしたガレスが立っていた。腰の剣と右肩にかかる布章は、騎士の証として誇らしげに垂れる。
「ガレス卿」
「貴殿は彼女たちに甘いようにお見受けいたします。詮無きこととは存じますが、一度レティリア殿下とお話なされてはいかがでしょうか」
「それこそ詮無きこと」
 淡白にそう返しながら執務室に向かうために前を向こうとすると、すっと腕を掴まれた。振り返るとガレスがその青の瞳を揺らしながら、私の手を恭しく捧げ持つ。それがあまりにも滑稽で、私はわずかに顔を歪めた。何故、私を求めるの。
「申し訳ありません。けれどお答えしていただきたい。何故貴殿は」
 何故あなたは誰も求めないの。
 いつか、誰かにも尋ねられた言葉だった。それはそう、遥か昔の遠い夢のような夏の日。あなたは翠の瞳をただまっすぐに私に向けていったのだ。
 震えそうになる喉を叱咤して私は穏やかに彼の言葉を遮った。私があなたに与えることができるのは純白の冷徹な眼差しだけだと、知っているのでしょう。そう憐憫を込めた声で。
「ガレス卿。私はこれから執務がございます。その話はまたの機会でよろしいでしょうか」
 完璧なまでの拒絶の声に、彼は毒気を抜かれたように言い募ろうとしていた言葉を落とすことなく静かに目をつむり、そして私の指先に唇を落とした。
「失礼、いたしました」
「では、また」
 彼の手が離されると同時に私は迷いなくその場を立ち去る。それでも彼の口が告げようとした言葉は、確かに私の中に消えることなく留まっていた。
 何故貴殿は、婚約者を選ばないのですか。
 誰もが一度は行った問答のそれを、私ほど多く繰り返された皇女など存在しなかったに違いない。飽きるほどに、意味すら知らない幼子であったときから、その言葉は既に何度も私に降りかかってきていたのだ。
 婚約者の存在しない異例な皇女。
 あんなにも生命の危険を唱えられていた兄ですら婚約者が存在したのに、私の婚約者はついにシェルマになっても決められることはない。その権利は父だけのものとして、私が誰の命を受けても婚約者を作らない。それは彼女との取り決めで決められたことだ。だから本来婚約者を決めるシェルマになるまでの年、たくさんの求愛をすげなく断り続けた。十になるまでは父が、シェルマになるまでは若い兄に代わって叔母が、そしてシェルマになってからは、私自身が全ての誘いを断り続けていた。
 私は何かに執着を覚えてはいけない、それを悟ったのはいつのことだろう。それから私は全てに執着を覚えないように、何かを愛しすぎないように、ただそれだけを念じて生きてきた。否、生きようとそう望んだのだ。
 それでも、どうしても。
「殿下。どうなさいましたか?」
 柔らかな声が耳朶を打つ。隣に立つ彼を見上げると、彼は静かなその翠の瞳に淡い不安を滲ませた眼差しを私に向けていた。それを受け止めながら、そっと首を振る。
「いよいよ、来週なのね」
 思わず漏れたのはレティリアの結婚式のことだった。手に持っていた書類を机の上に置いて、差し出されたカップを受け取り温かな紅茶を飲む。ふわりと紅茶の優しい香りが鼻腔をくすぐり、それにどこか和みながら蜂蜜色の髪の彼女を思い浮かべる。
 唯一人愛していたのだという男と結ばれる彼女と、何十もの愛を拒絶する異例の私。何が違うか、などと問うまでもなくそれは明らかだった。私は誰も愛さない。冷たく凍り付いていなければいけない。何者にも絆されることなく許されないままで。
 そうでなければ、そう在るように自ら望まなければ、私は愚かなまでにどう生きればいいのか分からないから。
「少し、安堵なさっているようですね」
 ウィルの声にわずかに頷く。安堵、というよりも収まるところに収まったような安定を感じていた。ぴたりと全てのピースが当てはまり、あとは全てを壊すその掌を待つだけ。
「安堵、というより、落ち着いたように思っているだけよ。収まった」
 まとまりよく、間違えることなくきちんと収まる。本来王族が結婚できる相手は、左翼のユーフェスニア公爵家か右翼のテルディモア公爵家、そして代々王の婚約者となる者の多いサイラス公爵家の三公だけだ。叔母の婚約者であるサイラス卿は、言うまでもなくサイラス公爵家本家の嫡男である。
 恐らくそれは人々からすれば珍妙なことに映っただろう。次代国王が決定している私は一切恋愛沙汰に名前が載らず、そして婚約者がシェルマを一年過ぎた今になっても存在しない。対して何の地位も約束されていない叔母は求愛をすげなく断るというシーンを目撃され、ついに来週婚約者を輩出するサイラス公爵家の嫡子と挙式を上げるのだ。更にそれに輪をかけるように私と彼女は犬猿の仲だったこともあり、私達は対極の存在として知られているように思う。
 誰とも愛を交わすことのない「氷の姫」と、王の婚約者と恋愛結婚をする慈愛に満ちた女。
 愛のない私と愛のある彼女。
 だからガレスの言い分を私は受け入れるわけにはいかない。マリエッタの言葉は私の行動を客観的に捉えたものだ。それならばあのような言葉になってしまうことも分からなくもない。
 物思いに耽っていることに気づいたウィルは、不意に私のカップを包む手を更にその上から重ねた。わずかに驚き顔を上げると、翠の瞳がそこには在る。
 ずっとずっと昔から、私の側にあった彼のそれ。
 疼く感情は何だろう。知ってはいけないことだと培われてきた理性が、思考を無理矢理に押しとどめその痛みを忘れさせる。否、忘れさせようと、する。
「ずっと持っていては疲れてしまいます」
 彼のその目を見つめていると、彼は極自然な口調でそう囁いて伏目がちに私の手からティーカップを抜き取った。すり抜ける温かさと収まる冷たい空気。不意に先月私に全てを遺して去った兄の冷たい手が、私の頬を撫でたような気がしてはっとした。その様子に気づいた目の前の彼は、怪訝そうに首をかしげる。
「いかがいたしましたか?」
「何でもない、わ」
 静かに首を振る。もう一度、淹れて貰った紅茶を一口含む。柔らかく甘い口当たりに、彼の好む紅茶を淹れたのだとすぐに気づいた。ウィルは幼いときから私と一緒になって、甘いものが大好きだったのだ。
「今日の仕事はこれで終わりかしら」
 もう、関係のないことだけれど。
 そう内心で呟きながら紅茶をそっと上から覗く。自分の冷たい碧眼が貫くように見つめ返してきていた。
「そうなります」
 ふっ、と液体の表面が穏かに揺れて、波が生まれた。