Another Story

エイエリラ

1

 花の香が、ふわりとそよいだ。神殿の冷たい床にそのまま身を横たえていた彼女は、億劫そうに目を擦り顔を上げる。開いた眼差しには光が灯らず濁った乳白色そのものだ。それでも光を感じ取ることができるのか頬を撫ぜる柔らかな日光に、ようやっと少女は身体を起こす。細く華奢なこの姿では、どう見ても十代前半にしか見えないだろう。けれど彼女はその身に龍を宿し、国ではなく人々を統べていた。
「おはよう、セイカ」
 ゆるゆると、崩れ落ちそうな老いた声が少女の名を呼んだ。彼女は柔らかなローブを抱きしめて、名前を呼んだ老女の姿を探す。見えないことを知っているからか、老女は音を立ててセイカの元へと近寄った。差し伸ばされた白い腕を首にまわし、よしよしと甘やかす。
「おはよう、おばば」
 眠たげな声ではあるが、それは外見よりか幾分大人びた声であった。開いた眼にはやはり何も映さぬが、その発する空気はどことなく人とは違う。浮世離れしているとはいいがたく、しかし地に足をつけて生きているのともまた違う。存在感は強烈に、その純白のローブすらも輝いているように見えるだろう。
 いつもならこのあと言葉を閉ざしてしまうのだが、今日の少女は違った。
「今日は、知らない人がやってくるわ」
 ただぽつりとそう零すようにつぶやいて、老女の目を捕らえた。淡い空色の織物をその小さい肩に掛けさせていた彼女は、は、と息を呑む。見えているはずもないのに、濁った乳白色はそこに見間違えもない光を灯して。
 そして柔らかに哀しげに笑った。
「その人の国が、私たちを滅ぼす」
「ああ」
 予言だった。人々を統べて心を捕らえて放さない、龍の一族の巫女の。
 彼女がそう告げたのならば、それは現実の音となって迫ってくる。
 それを知っているからこそ、老婆はただ、顔を歪めた。国とすらならぬまま終わる人々の叫びを思い、絶望にその顔を覆う。それをひどく哀しげに少女は見つめて、音もなく立ち上がった。純白の髪が神殿の窓から入ってきた風によって、ふわりと宙をそよぐ。風が吹くほうを振り返り、彼女は素足を進めた。それもまた無音の動作ではあるが、老婆は気配が去っていくのに気が付いて顔を上げ、手を差しのばす。
「セイカ」
 名前を呼ばれて振り返る。やはり微笑んだままだった。
 白い花びらが風と共に舞い込んで、少女の頬にほんの少し傷をつけながら散っていく。零れるはずの赤はなく、ただセイカは見えぬ眼を老女に向けて。
「大丈夫。龍は、どこにもいかないわ」
 そう呟いた。

    ――――◆――――◆――――◆――――◆――――◆――――

「隠れなくても、気づいているわ。出てきたら」
 そう幼い巫女が小さな声を上げれば、何かを蹴飛ばしたのだろうか、すごい音と共に少年が少女の前に姿を現した。武具を身に着けて奏でる音は騒々しい。セイカがそちらに乳白色の眼をやれば、彼はずかずかと彼女の元へとやってきた。そうしてすらりと剣が抜き放たれる音を間近に聞き取ると、動じることなくその濁った目を少年に向けた。彼は異様なまでの彼女の静けさに一瞬息を呑み、目の前に突きつけられた切っ先を少女が見てもいないことに気が付いた。
「お前、目が見えないのか……?」
 向けられている眼に意思はない。それがどういうことか理解し、また彼の立場上そんな弱者に剣を向けるなどあってはならぬことだった。すぐさま刀身を鞘に収め、少女のすぐ傍に跪く。そうして巫女の表情を窺うようにして仰ぎ見れば、彼女は何がどうなっているのかよく分かっていない顔をして、虚空を見つめていた。
「悪い」
「あなたはどこから来たの」
 謝罪の真意など問わず、彼女は今度こそ少年を真正面から見つめて尋ねた。何も映さない瞳には、勿論武具を纏った少年すらも映らずに。それを受けて彼はその淡い緑の目を逸らさずに返答する。
「キルシェ。あの山を越えたところにある国だ」
 あの山といって分からないかと少年が気づくと同時に、巫女はああと頷いた。
「そう」
 静かにもらす。まるで知っているかのような口調に彼が首をかしげると、うっすらと優しい笑みが彼女の口元に乗った。ゆらりと現れた幻想のように美しい笑みに、少年は思わず言葉を失う。心臓が痛いほど脈打った。
 彼にとって今まで見てきたことがない種類の人間だからだろうか、彼女はひどく幻想的で儚い生き物に映ったのだ。
 できるならば、守ってやりたいと思うほどに。
「名前を、聞いてもいいか」
 尋ねれば、虚空を見やっていた彼女の白濁した眼が、少年の元へと戻ってくる。もう口元には笑みなど乗ってはいなかったが、代わりに見えない瞳に哀しい色が差し込んでいた。哀しい、哀しい愛情。巫女はそっと自らの名前を差し出した。
「セイカ。あなたは」
 哀しい色。それははっきりと少年が理解するよりも早く、言葉によって打ち消される。違和感を覚えたとしても、彼には理解できなかっただろう。彼女の抱える絶望など。彼女の抱える嘆きなど。
 誰よりも愛しいあなたに、滅ばされることを知っていることなど。
「俺はデュロイ。セイカ、もしよければ、またここに来てもいいか」
 彼はそんな巫女の葛藤など知らずに、柔らかに笑んでそういった。そっと伸ばされた手が触れそうになっては戻っていくのを感じた彼女は、その大きく肉刺だらけの温かな手を自らの手で握り締める。指先の震えは伝わってはいないだろうか。そう思いながら、彼の手を自分の頬に宛がった。
 デュロイが驚いて身じろぎするのが気配で分かる。それでも零れた涙は止まらなかった。
「お、おい、大丈夫か?」
 頷く。何度もこくこくと。
「大丈夫よ。是非、来て」
 私が滅ぶことになったとしても、あなたが会いに来てくれたことが、こんなにも嬉しい。
 ねえ、愛しい人よ。
 あなたとの時間を、どうかどうか長引かせて。