雨の約束

 雨が降っていた。
 机に伏せながら横目でちらりと窓を見る。灰色の空とぐしゃぐしゃになったグラウンドと、それから線のような雨。今日は部活できねえな。
「ねえ、いつまで寝てるの」
 呆れたようなそんな声がして、顔を上げると桜木が机の前に立っていた。凛とした目は真っ直ぐに俺を捕らえる。幼稚園とかそんな頃も――もしかしたらもっと前から?――こいつは人の目を臆面もなく見つめて、言葉を投げた。それがやっぱり少し気まずくて、さりげなく視線を逸らし立ち上がる。
 エナメルを取ってもう一度窓を見る。外はうっすらと暗くなっていた。
 不意に後ろで桜木が、まるで死に逝こうとするのを引き止められたかのような、虚ろな声を零す。
「ねえ、何で人って生きてるの」
 背中にぞわりと、恐怖が張り付いた。壊れそうな脆い声。
 振り返る。何にも変わらない凛とした目がただ俺を見つめていた。泣いてはいない。エナメルを肩にかけて歩きながら視線を返す。彼女は迷うことなく俺の隣を歩いた。
「やりたいことがあるから、じゃねえの」
「やりたいことがなければ、死んでもいいの」
 果てなく落ちていきそうな声だった。桜木を盗み見ると、黙って答えを待っていた。
「じゃあお前はどうなの。何で生きてんの」
 幼馴染は一度驚いたように肩をびくつかせ、自分より高い位置にある俺の目を見つめて言った。
「死ぬ理由がないから」
 カツンカツン。
 靴音が廊下に響いて雨の中に消えた。
 半ば予想していた簡潔な答えに、返す言葉を躊躇う。真剣に答えなければいけない。いつものように笑って返すことはできない。そんな気がした。
「でもさ。死ぬ理由もないけど、困ったことに生きる理由もないんだ、あたし」
 桜木は不意にどこか気の抜けたようなそんな言葉をもらした。もう目線は歩いている廊下に向けられていた。
「生きる理由も死ぬ理由もない。だけど死にたいわけじゃないから、生きてる。ねえ、これって変かな」
 否定、されたがっているように、聴こえた。いつも肯定も否定も受け付けず、自分の意志を信じていた桜木のその言葉は、やっぱりどこか泣き出しそうだった。
「変じゃねえよ。普通だろ」
 彼女が何に怯えているのか、俺には分からなかった。ただそのいつになく不安そうな弱々しい声に、慰めですらない言葉を返す。
 幼馴染、なんて。あやふやで曖昧な線引きでしかなく、そこを踏み越えていくほどの度胸もない俺は、その存在すらも不確かな境界線の前でただ桜木が動くのを待っている。いつもそうだった。俺はその線を踏み越えて桜木の奥には辿りつけない。
「普通、かな」
 ぽつり、彼女は呟く。桜木の白い手が、目元を拭った気がした。振り向かないで、ああ、と思う。やっぱり、泣いていたのか。
「普通だよ」
 根拠もないその言葉。勿論それが中身を伴わない言葉であることを、桜木は分かっている。こいつはいつも俺の言葉の意味を全部理解していた。俺だけじゃない、どんな他人の言葉でさえその真意を、理解している。
 それでも、数歩遅れた距離で、彼女は笑った。
「本当に? そう思ってる?」
 口先だけじゃない? あたしはあんたを信じていいんだよね?
 聞こえないはずの心の声が、聞こえた気がした。ちら、と後ろを見ると、桜木はほんの少し、気恥ずかしそうに笑っていた。弱い言葉を吐いた自分を恥じるように。
「おう」
 返事じゃない言葉を返すと思いっきり背中をはたかれた。
「いって!」
「こんなの痛くないでしょ」
 そういいながら、桜木ははにかむように笑う。たったそれだけで自分も喜んでいることが恥ずかしくてそっぽを向いた。
「馬鹿力だからいてーんだよ」
「あんたの鍛え方が良くないんじゃない?」
「うっせー」
 分かってる。桜木のそのはにかむような笑みは、本当に中身を伴わない嘘だということ。全部空元気だということ。
 俺には踏み込めないその先で、桜木の世界はぐらぐらと音を立てて揺れている。その中で桜木は一人、顔を歪ませ揺られるままに泣いている、そんな気がする。
 手を伸ばしていいのか分からない。救いを待っているのかも何もかも。
 廊下が途切れて階段を下りる。一足制の学校だから掃除はされていても決して綺麗とはいえない。桜木がつ、と指を窓枠に這わせて小さく、冷たい、とこぼした。もうその横顔からは、悲しいほどの偽の笑顔は消えて、凛とした空気だけが残っていた。
「秀」
「ん」
 目を、逸らす。
 視界の隅で桜木が笑った。
「約束、して」
 使われなくなった下駄箱の前を歩いて外へ向かう。雨の音と桜木の声だけが、全てだった。
「何を」
「何でも良いよ。お願い」
 あたしに、生きる理由を生きていられるような理由を。
 振り返って真正面に立つ。桜木は驚いたように踏み出そうとした足を止めた。いつの間にか頭一つ分も差ができたその位置で、だけど目と目はぴったりと向かい合う。
 桜木が、俺の分まで視線を合わせるから。
「お前に、言いたいことがある」
「え?」
 困惑したような声。
 それでいいよ。
「けどやっぱ言わね」
 俺のこの言葉で、お前がいてくれれば。
「は? え、何?」
「教えねーから。当ててみろ」
 それだけでいい。それでいい。
「ちょ何こっちがシリアス話してんのに!」
「ばーか。十分約束になってんだろ?」
 お前がいるなら、この気持ちは死ぬまで伝えない。そう思った。

 言い争う二人を、雨が静かに飲み込んだ。



400字詰め原稿用紙換算7枚。

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