青のシンボル

 それはひどく綺麗な青だった。
 初めて見たそれが、なぜだか異様に哀しくて泣いた。言葉を知らない幼い私は、ただ恐ろしいまでの青を前に母に縋って泣いた。母の白い二の腕と、それに赤い痕さえ残るくらい、強く握った自分のふっくらとした指を覚えている。
 きっと痛かっただろう。無邪気な子供の力は時折残酷だ。言葉を理解できないから「痛い」がわからない。いや、それだけではなかっただろう。
 母は、美しい人だった。
 子供ながらに彼女が美しいということはわかった。どうしてわかったのかなんて曖昧だ。答えはない。きっと他者と比べて美しい、それが幼い私にとっての美しいという理念で。母は誰よりも美しかった。
 自分とこれっぽっちも似ていないことを、私はまだ知らなかった。この人という身体から自分という肉体が飛び出たことに、私はなんら疑問を覚えていなかった。ただ誰よりも美しい母がいて、他のみんなには存在する父がいないことだけが事実だった。私の家にある歯磨きは二本で、赤と子供用のピンクしかなかった。父のシンボルカラーである青はどこにもなかった。
 だから私は青が怖い。
 初めて見たあの日の青は、脳裏に、瞼の裏に、染み付いて、どう擦ったところで落ちやしない。鮮烈なあの色を、私は洗い流すことができないままだ。
 それなのに、母は私を置いていってしまった。
 青を残して洗い流すことさえ許さずに、ただ自分だけすり抜けるようにいなくなってしまった。
「母さん」
 呼びかける声はどこにも届かない。ただ眠るかのように灰色な、彼女の遺体に降って跳ね返るだけだ。誰もいない私とそれだけの部屋は、やはりあの青が映っているようで、子供のように泣いてしまいたかった。
 怖いよ。

 小さい頃、私は美しい母を持ったことが自慢だった。こんなにも美しい人はいなかったし、誰もが彼女を美しいといった。私はそれが嬉しくて誇らしくて、こんな母を持った自分の幸運が大好きだった。だから、男の子に意地悪をされても、女の子に嫌われても、私は彼らを許すことができた。だって、そう、彼らには私の母がいなかったから。美しい母がいて、ただそれだけで、私はすべてを愛せた。
「明里ちゃんは素敵なママを持って幸せね」
「ちゃんとママのお手伝いをしてあげるのよ」
「綺麗なお母さんを困らせちゃだめだよ」
 そんな言葉をかけられるたびに、私はあきれるくらい嬉しくなった。そうなの、こんなに素敵なママはいないわ。勿論お手伝いもしてる。困らせるようなこと、絶対しないからママはお菓子を買ってくれるの。
 私は本当にまめに働いた。母が大好きで、だから絶対に嫌われたくなくて、一生懸命できるかぎりの手伝いをした。勿論子供にできる手伝いなんて高が知れているけれど、私はそれを誇りをもって行った。母は小さいポニーテールが跳ねるのを、ただ優しい眼差しで見つめていた。それが優しい、ではなくて、哀しい瞳だと知ったのは中学生のときだけど。私はまだその頃彼女を信じていた。
 二人だけの生活は静かで退屈で、眠ってしまいそうなほど穏やかだった。広いとはいえないアパートの一室で、私たちはラジオを聴いたり絵本を読んだり暮らしていた。幼稚園や保育園には通わなかった。母もどこかに働きにでることはなかった。それがどれほど奇妙なことか、幼い私には理解できなくて、自慢の母を独り占めできることで満足だった。
 目を覚ますといつも必ず朝ごはんができていた。母はもうとっくにおきていて、私がおきてくるのを眺めて目を細めて笑い、明里はおねぼうさんね、といった。
 それを聞きながら、食卓に向かうより先に、外に出て紫陽花が咲いているかを確認するのが日課だった。咲くのをあんなにも心待ちにしているくせに、どうしてか咲いたらそれがひどく怖くって、紫陽花が咲く季節になると朝の日課は失われる。まだあの青を見たわけでもない幼い頃から、私は青が怖かった。
 雨が降っている日に聴くラジオは、子守唄そのものだった。優しい音楽はどうしようもなくうとうとと、眠気を誘った。私はあっけなく眠りに落ちて、時々母の大きな手が私の頭を撫でているのを感じて安心した。この手が私を守ってくれることを無条件に信じていた。
 小学生になって、父がいないことの疑問を覚えた。それでも聞いてはいけないような気がして、私は母に問うことをしなかった。お父さんは? と尋ねられても首を横に振ることですべて済ませていた。大抵それでみんなは納得してくれた。もしも詳しく聞かれても死んじゃった、と答えるようにした。母は私がそう答えていることを知っても、何もいうことはなかった。ただ目を細めて祈るように笑っただけだった。
 父がいないから、なのかもしれない。小学生になっても男の人が怖かった。担任の先生が大きな男の人だったりすると、私はできる限り近寄らないようにしていた。友達の後ろに隠れてかかわりを持たないようにした。家庭訪問のときもベランダに出て、どんな雨の日でも怖いはずの青の花をじっと見詰めていた。
 べたべたと、青にまみれていくようで怖かった。
 美しい母を見る男の人の目が嫌だった。何よりも彼らが嫌だった。私にはときどき、男の人の顔が青いペンキをぶっかけたように見えた。それはどろどろと滴って、近づくだけで降りかかってくる気さえした。
 青を感じさせる人は、恐怖そのものだった。

 中学生になって私は母の子供ではないことを知った。母子手帳を見て、初めて自分が私生児ですらないことに気がついた。驚きだ。そのときの衝撃は、こんなに簡単に言葉にできなかったんだけれど。
 私は施設の子供だった。
 さすがにもう中学生だ。自分が母と似ていないことなんてとっくに気がついていたし、それがどういう意味かはなんとなく想像もできた。けれど、一切血のつながりがないなんて、まったく予想もしていなかった。どこか遠い親戚の子供だったのかも、なんて思っていた淡い希望が、一瞬で消え去ったのを覚えている。
 それから。私はいつも母が気になった。こんなにも美しい母が、どうして私を施設から引き取ったのか、どうして私を養子にしたのか、そればかり考えるようになった。尋ねることはしない。母がその質問に答えないだろうことは、考えるまでもなく明らかだった。母は花よりも無口だった。
 母子手帳を見て、もうひとつ驚いたことがある。母の年齢は、私と十六しか違わないことだった。幼稚園でどうしてあんなに母だけが際立っていたのか、答えは簡単に出た。母はあまりにも若すぎたのだ。
 美しく優しい母が大好きだった。
 それでも、湧き出る疑問は絶え間ない。
 どうして祖父母のところに連れて行ってくれないの。
 どうして私を引き取ったの。
 誰があなたを一人にしているの。
 あなたは何者なの。
 そう、私は彼女を母と慕うだけで、彼女がいったい誰なのか、何一つ知らなかった。名前は早崎悠子、身長は私より三センチくらい小さくて、体重は私より五キロくらい重い。いつもそっと笑って、声を無暗に荒げなかった。
 それくらいしかわからない。友人と称する人が一人もいないことや、祖父母にいたっては時折送られてくるお金と果物以外は、いるのかすらあやふやだ。そのくせ私たちはお金に困ることがなかった。二人暮しで、仕事もした様子がない母は、子供の目から見ても奇妙に映った。
 一度だけ、尋ねたことがある。
 押入れから見つかった古いアルバムだった。高校生の頃だろうか、表紙にはF女学院第二十六期と書かれていた。それは埃がつもっていて、ずっと暗いところにあったからか、じめじめとした匂いが漂った。開くと、写真同士が重なっていたところが、ぱり、と音を立てた。
 彼女の名前とあの美しい顔を捜す。見つかった母は、当時とほとんど変わっていなかったように思う。黒い艶やかな髪を二つのお下げにして、目を細めて微笑んでいた。有名なF学院の女生徒に相応しい、静謐な笑みだった。
 だけど、その下に乗っていた苗字は、早崎ではなかった。
「お母さんってバツイチなの」
 何気なくふざけた口調で尋ねた。中学から帰ってきて、スーパーで買ってきた野菜を冷蔵庫にしまっているときだった。母はダイニングでぼんやりと、園芸の雑誌を読んでいた。後ろを気にしながら、まるでバツイチという言葉を最近知ったように茶化してそういった。
 こと、と、雑誌を置く音がした。
 振り返る。彼女はひどく寂しそうにその目元を緩ませていた。
 ――違う、そんな寂しい目をさせるつもりなんてなかった。
「ごめ、んなさい」
 母は一度ゆっくりと首を振った。それから、言葉を無くし項垂れた私の頭を撫でて、こてん、と小首をかしげて尋ねた。もうどこにも寂しさなんてなかった。美しく明るく笑った。
「ねえ、明里。海に、行かない?」
 ぞっとした。あの青を、脳裏に焼きついて離れない、小さい頃に見たあれをもう一度見ることを、ただ私は恐怖した。
 だけど、そのとき私は頷いた。大好きな母に嫌われることを恐れた私は、自分の恐怖なんてちっぽけなものよりも、母の絶大な愛を望んだ。
 私たちは、冬が近くなった秋の肌寒い日に、海に向かった。私たちは二人っきりだった。他には見渡す限り誰もいない。まるで世界が終わってしまったかのような静寂が、あたりを覆いつくしていた。その中で私たちは、寄り添うこともせずにその巨大な青を臨んでいた。
 もう一度見たそれは、やはり恐怖の対象でしかなかった。まるで今にもその身を沈めてしまいそうな母の隣で、私は動くこともできずに凍り付いていることしかできなかった。
 打ち寄せる青と白の波。何度も何度も重ねて塗りつぶされるような感覚に、気持ちが悪くなった。どうして母が海を好むのか、私には理解できなかった。
 そのとき、彼女はつぶやいた。
 薄い唇を開けた母を横目で見て、私たちは目が合った。私は確かにこくりと返事をするように頷いた。彼女に応えるために頷いたのだ。
 だけど私は。
 美しい母がなんていったのかを、思い出せない。

 瞼を閉じた女は、淡々と眠っているかのようだった。白い頬、どこも汚れていない綺麗な肌、薄い唇、細い指、骨のような腕。
 あの頃から何も変わっていなかった。あの海に行った日からもう十年が経ったなんて信じられなかった。母はまるで時を置き忘れたように、何一つ変わっていなかった。変わってしまったのは私。母から逃げるように遠い大学を選んだ私だ。
 病室を抜け出て、看護士に断りを入れてから、そのまま外に出る。目と鼻の先は海だ、潮騒と船の汽笛が聞こえた。海を目前に、置いてあったペンキのはがれたベンチに腰掛けて、ぼんやりと青を見つめた。
 誰かが煙草を吸っているのだろうか、白く細い煙がゆらゆらと一面の青を汚した。その白い筋が、滲む。
 青を映した涙が、頬を伝った。



2011年文化祭特別号「黒髪短髪少女なう。」収録。

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