空想にばかりふけっているやつだった、浅黄という俺の幼馴染は。
島崎浅黄。確か五月が誕生日だから、もう彼女は十九になっているだろうか。俺と浅黄はほぼ一年、生まれてくるのにタイムラグが生じていたから、どことなくあいつは姉さん風をふかしていてむかついた。大して変わらないくせに、って。
もう全然会っていない。そのくせ時折彼女のへら、とした笑い声とそのふやけた表情を思い出す。同時に心中に生まれるのは、どうしてだろう、後悔だった。
何かいうことがあったんじゃないのか。
何か、いわなければいけないことが。
本当はもうその答えは知っていた。認めるのが嫌なだけ。俺はほら、彼女と違ってガキだから。
だからいろいろ見逃しちゃうんだろうけど。
だから、こうやって後悔するんだろうけど。
つまり簡単にいうなら、きっと俺はガキだったんだ。
「ねえ翔。この間面白いこと聞いたんだ」
明るい声に振り返る。案の定丸眼鏡をかけたお下げの少女が立っていた。白に紺色のラインが入ったセーターを着込み、スカートからは健康とも不健康ともいいがたい、長い脚が飛び出ていた。
いまどきいないような絶滅危惧種的文学少女、というわけではない。本人曰く、なんとなく。つまりはただのキャラ付けだ。それでもあきれてしまうくらいそれが似合い、その明るい声と明快な性格がいろいろ破綻させているところがまた、彼女の本質をあらわしているようで、嫌いじゃない。
ご近所なわけで今、つまり高校三年生になっても俺たちはときどき一緒に帰る。そもそも幼い頃からあんなに一緒にいたんだから、別に仲が悪いフリをする必要性を感じなかった。そこらへんはこいつも俺もざっくりだ。まわりの目を気にするタイプでもないし。
俺に彼女ができたときは、そのからくりは少し変わったりしたんだけど。でも、まあ今は見事フリーなので、ありがたく幼馴染と帰る。この幼馴染は実にさっぱりとした人間なので、会話をするのが楽なのだ。
とかまあそういうわけで俺たちはたまたま会ったから、一緒に帰ることにした。
「また妄想かよ」
「違うって。ねえ翔だってカノジョにキスしたりするでしょ? その唇をつける場所によって意味が違うらしいんだ。場所とセットでは覚えてないんだけど、欲望とか、狂気とか、温情とか、いろいろ」
さらりといわれた言葉にどきりと心臓が音を立てた。なんとなく気まずくなるだろう発言なのに、彼女はそれに気が付かない。いや、気が付かないというか無意識の発言なのだろう。こいつ自身は付き合ったことはないらしいのに、どこでこんな知識を仕入れたんだろう。
「無茶苦茶うさんくさくね」
「いいじゃん、面白おかしい余興の一種ですよ」
ふふ、と笑いながら、目を細める。冷たい空気のせいで、マフラーからはみ出た鼻や頬が赤く染まっていることが分かる。ブレザーでも着ればいいのに、面倒くさいやつだ。いや、女子はみんなそうだっけ。
「もうすぐ、本番だね」
受験。
うやむやにするでもなく、はっきりと告げる彼女は、少し、どこか、つまらなさそうだった。成績優秀、品行方正、文武両道を体でいく浅黄は、もうすでに推薦で大学は決まっている。超優秀な私立大学だ。俺では絶対手が届かないレベルで、同時にひどく遠いところにあった。
なにせそこは外国だから。
「受験が終わったやつが、なんや言うのはむかつくな」
笑いながらそう嘯く。別にむかついているわけじゃないし、ただ思ったことをいってみただけだ。実際俺がどう頑張ったところで、もうこれ以上の大学を望むのは無理だって分かってる。だから、今第一志望のところに向けて、一心不乱、ではないが一生懸命勉強に精を出しているわけで。
「翔がそういうのは、なんか嘘っぽいよね」
「知ってるだろ、そんなん」
だって嘘だし。
むかつきようもない。こいつがそんな遠いところに行くのは、彼女がそれを望んで一生懸命、一心不乱に、それこそ全身全霊をかけて勉強したからだ。それを知ってる俺がむかつくはずもない。
「はーあ、もうすぐこことお別れか」
「気が早い」
「だってあたしが向こういくのはもうすぐだし。一緒に卒業できないっていったよね」
そう、外国の大学に入学するための手続きをするために、彼女は単身向こうへいく。それも近いうちに。日にちを教えてくれることはなくて、そのうち、としか言わなかった。
「それは聞いたよ。で、いつ行くの」
「あした」
一瞬意味が分からなくて凍りつく。隣の浅黄をまっすぐに見ようとして、ぐいっと襟元が引かれた。同時に驚いて閉じた瞼に、やわらかく冷たい何かが触れる。一瞬の、ことだった。
「明日、向こういくの。じゃあね」
やはり彼女はへら、と笑ってそういった。振り返ることなく立ち去った。
その行動の意味を理解するのは簡単だった。
卒業式の日に渡された卒業アルバムに、すでにあいつからのコメントがあって、そこにはやっぱり明快にこうあった。
『瞼の上の、憧憬のキス』。