青い目の子猫 (上)

 青い目の子猫を、捨てた。
 つまり僕は忘れてしまいたかったのだろう。
 彼女のことを。
 彼女に纏わる日常的で刹那的な事件を。
 大事な、妹のことを。

 何も変わらない日常というもののことを、僕はいまいち理解できていなかった。だから毎日学校に向かう道を変えたり、髪に梓のピンをつけていったり、わざと転んでみたりした。高校生にもなって盛大にこけた僕を、家で迎えた梓は一目見て噴き出した。明るいはじけるような笑い声だった。
 梓は僕の双子の妹で、僕らは笑えるぐらいそっくりだった。男女という別だけで、顔の造りや仕草はまったく同じだった。中性的な、控えめにいっても綺麗な顔立ちは、静香さんともよく似ていた。
 梓は身体が弱かった。中学を卒業することができなかった。出席日数が圧倒的に足りなかったから。
「カズ」
 玄関でローファを履いていると、いつもならまだ寝ているはずの梓の声がして、驚いて振り返る。腰まである長い黒髪を垂らして、パジャマ姿で立っていた。後ろのリビングのほうで、父さんが心配そうにこちらを覗いているのが見えた。
「おはよ。今日は早いな」
「うん。あのね、買ってきてほしいものがあるの」
 僕も父さんもちょっとびっくりなくらい梓には甘い。死んでしまった静香さんと生き写しだからだろうか、まるで後悔しているように梓を甘やかしてしまうのだ。
 視界の端っこで、父さんが聞き耳を立てているのがわかって、思わず笑いそうになる。残念ながら今回頼みごとをされているのは僕なのだ。
「何が欲しいの」
「子猫。子猫が欲しい。青い目の子猫」
 おつかいで買ってくるには少し、というより随分と高価なおねだりだった。一瞬凍りつく。その隙にしゃしゃりでてきそうな父さんを睨んで制止し、銀行の貯金を思い浮かべる。きっと大丈夫だろう。僕も父さんもいない日中は梓が面倒を見るんだから、他の必需品だとかは父さんが買うはずだ。算段をつけている僕を、梓は不安そうな瞳で見つめていた。
「あの、ね、無理しなくていいからね。お父さんにいったらいいよ、っていわれたから」
「馬鹿だなアズは。無理なんてしないよ。無暗に扉開けるなよ? 連続殺人犯がいるんだから」
 馬鹿にしたようにそういうと、むっと唇を尖らせてわかってるよというその口調はひどく幼い。ガキだなあと思いながら、くしゃっと彼女の髪を乱暴に撫でていった。
「青い目の子猫な?」
 手の下で、梓が花のように笑った。
「うん!」

 父さんと静香さんは日本で知り合った。イギリスの有名な考古学者だった父さんは、当時大学院生だった静香さんの大学に講演会のために呼ばれ、そこで二人は出逢ったのだ。そのとき父さんは三十四、静香さんは二十六だった。
 二人はまるで決まったことのように愛し合い、そして当然の如く実家から反対され、茶番のように駆け落ち同然で結婚した。そして三年後の雪降る冬の日に、僕らは産声を上げ、もとから身体の弱かった静香さんは息を引き取った。
 僕と梓が実母である彼女を静香さんと呼ぶのは、母としての記憶がとても薄弱だからだ。それでも仏壇に飾ってある写真はいつも違い、そこに映る彼女は笑っていた。まるで生きているみたいに。
 母さんと呼ぶにはあまりにも遠く、あの人と呼ぶにはあまりに近かったから、自然と僕らは彼女を「静香さん」と呼んだ。
 僕と梓の目は青かった。特に僕の目は色が濃く、梓も静香さんも僕の目がお気に入りらしい。今回の梓のご所望の子猫は、僕の代わり、そう考えるのは自意識過剰というやつだろうか。
 学校が終わって帰り道、どこのペットショップに行こうかとクラスの奴らからもらったメモを見る。男子も女子も、動物に関してはよく知っているらしい。ご丁寧に病院まで書いてくれている奴もいた。
 僕はこれがなんてことのない兄妹としての愛情だと思ってる。ただ、少しだけ、梓本人にも言われるくらいには――つまり梓を目に入れても痛くないくらいには――、シスコンなのだそうだ。意識しているわけじゃないから、よく分からないけど。
 日常的なこと。僕にとってのそれは、梓を基準に回ってる。きっと、このまま何もないまま毎日が過ぎていくなら、僕はそれをしばらく続け、自身が自立すると同時に忘れていくのだろう。梓という双子の妹がいて、彼女のために毎日を過ごしていた、そういう事実を。
 はあ、と小さく息を吐く。秋も深まってきた今では、吐き出した息はうっすらと白い。
 どうしようかなと考えながら歩道橋を渡っていると、その橋の手すりのところを、白い物体が歩いているのに気がつく。ふるふると震えて今にもそこから落ちてしまいそうな、白い毛むくじゃら。少しでも右に傾けば道路にまっさかさまというとんでもない歩行をしている、僕の掌くらいしかない子猫だった。
 よくよく耳を済ませればにーにーと小さい鳴き声をあげていた。それが、いったいどうしてそう思ったのかとんと分からないが、梓の泣き声に聞こえて、足は自然と止まる。幸い歩道橋には誰もおらず、そしてついていることに丁度先の信号が赤なのか、車は止まっていた。今しかない。
「ごめんな」
 小さく子猫に謝罪し、がしっと彼――または彼女――の胴体を鷲掴みにして、手すりから引き剥がす。みぎゃっという危機を覚えた口調で猫は鳴いたけど、正直助けてもらったと感謝してほしいくらいだ。まるで骨のように細い猫の身体を抱き上げれば、威嚇しながら爪が飛んでくる。あわてて避けようにも猫との距離は近すぎてあっさり引っかかれた。
「うわ、いって!」
 思わず声を上げてしまいながらとりあえず黙らせようと、耳の間を指でぎこちなく掻いた。メモの中に書いてあった技である。猫はしばらくもごもご鳴いたり引っかいたり噛んだりしてきたが、やがておとなしく身を預けてくれた。ものすごくほっとする。
 そのとき、突然猫がぴくんと耳を跳ね上げた。同時に聞こえた靴音に、僕は歩道橋に人が来たのかと思って、さっき自分が登ってきた階段のほうを見た。
 そして、僕は振り返ったことを後悔する。
「な」
 そこに立っていたのは、フードを目深に被った少年だった。顔を見たことがないのに僕は彼を知っていた。いいや、僕だけでなくこの町に住む人なら、みんな彼を知っているだろう。その手に握られたものを見るまでも無く。
 猟奇的連続殺人犯。
 こんな昼日中、しかも歩道橋の上に突っ立っているなんてありえない状況を理解できずにただ困惑する。困惑している暇なんてあれば早く逃げ出せばいいのに、情けないことに僕の膝は震えて動けなかった。
 ぽとん、と何か水滴のようなものが落ちる音がして、見たくもないそれに目が行きそうになった。だけど、それより早く、そいつは僕の本当に目の前に現れて、笑った。
「可愛い猫」
 落ちた声にえ、と当惑する。どうしてか聞いたことがあるような声の気がした。嫌な予感が、ざわざわと心を撫でる。唇さえ重なってしまいそうなその距離で、そいつはもう一度笑った。
「ね、カズ」
 手の中からするりと何かが抜き取られる。それを認識することができないまま、僕はそいつを見つめていた。フードの下からちらりと見えたその目の色は、その顔は。
「あ、ず……?」
 誰かが通報したのだろうか、俄かに歩道橋の向こう側が騒がしくなる。それでも僕は動けなかった。子猫を抱く手に刃物を持って、嬉しそうに笑う妹を前にして、僕はただ茫然と見ていることしかできなかった。
「ありがとうカズ。可愛い子猫。ここだときっと話せないから、神社で待ってるね」
 僕が来ることを信じて疑わない声だった。その青い目を輝かせて彼女は一度笑うと、その身を翻して走り去った。
 信じたくなかった。
 気持ち悪くなって思わず胸元を押さえる。下がる視界の片隅に、赤い水滴が落ちていた。それは、消えない染みのように僕の視界を汚染した。

 いつそこについたのか、どうやってあの歩道橋から離れたのかまったく覚えていなかった。小さい頃梓と散々遊んだ神社は、今はもう誰もいないのかすっかり廃屋と化している。連日続いた雨のせいで美しかった紅葉はどろどろと崩れて、泥水を作っていた。
 だけど、廃屋と化したそこにたどり着く前に、僕の役割は終わった。
 どろりと崩れた紅葉の中、眠るようにして梓は倒れこんでいた。
 手も足も傷だらけで、それなのに彼女は笑っていた。幸せそうにくつくつと笑った。
「ああ、カズ。来てくれたんだね」
「あ、ずさ」
「私ね、カズの思ってるような妹じゃ、ないんだよ」
 それは、まるで僕がずっと梓に尽くしてきたことを、責めるかのように聞こえた。茫然と見下ろすだけの僕を、梓の淡い青の目が見上げていた。その幻想めいた瞳から、つう、と涙が零れ落ちた。
「ごめんね」
 どうして彼女が謝るのかが、分からなかった。
 不意に梓の目から命を伴っていた色が嘘のように消えて、ぽっかりと空白のように心臓のように開いた唇が、彼女が死んだことを告げていた。
 にー、と鳴き声が聞こえて、足にあの子猫が乗っかって、僕を可笑しそうに見ていた。
 死んじゃったね、とでもいいたげな瞳で。
 涙は一滴も零れなかった。
 彼女はいなくなった、だから僕は。

 青い目の君を、捨てた。



いつぞやの部誌に掲載。初の上下もの。

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