青い目の子猫 (下)

 青い目の子猫を、愛した。
 つまり私は忘れられたくなかったのだろう。
 彼に。
 彼に纏わるなんてことのない日常に。
 大事な、兄に。

 上総、というのが兄の名前だった。私と兄と、二人の名前をつけた静香さんは、まず先に女の子だった私の名前を決めたらしい。それはずっと彼女が大切にしていた猫の名前。それが梓。最初それを聞いたときには驚いた。猫のくせに、綺麗過ぎる名前だと思ったから。
 それから体調が急変する数分前まで、静香さんはお父さんと話し合って上総の名前を決めた。一秒もないような差で兄になった彼は、けれど名前をつけられたのは後だった。それもどことなく不思議なことのように思う。
 私はその場にいて、きっと静香さんかお父さんの手に抱かれていたのだろうけど、もちろんそんなときのことなんて覚えているはずもない。だけど、二人が幸せそうに微笑んでアズサという発音に似た名前を考えているところは、安易に想像できた。写真でしか見たことのない静香さんの笑顔も、簡単に。
 私と同じ名前の猫はというと、私たちが三歳のときにいなくなった。とてもとても可愛がっていたから、私も上総もお父さんも探したけれど、彼女はどこにも見つからなかった。白い艶やかな毛並みと気位の高そうな青い目は、幼い赤ん坊であり彼女の飼い主の子供たちを、まるで母親のように見つめていた。今も時折彼女の目を思い出す。もう上総は覚えていないだろうけれど。
 そう、上総は覚えていない。彼女のあの目の色も。
 だって私はほぼ毎日家にいて、遊び相手は彼女だけだったのだから。それでも具合がよくなる度に、上総に手を引かれて近くの神社で遊びまわった。ときどき彼女も私たちについてきて、やはり母親のような眼差しで遊ぶ双子を見守ってくれていた。
 彼女のことを覚えていないのだ。私の無茶なお願いを笑顔で聞いていた彼は、一瞬困ったように眉をひそめていた。それを見ながら寂しく思う。カズだって、あんなに可愛がってもらっていたのにね。
 いつか、私も忘れられてしまうのだろうか。どこかにふいっといなくなってしまった、同じ名前の猫のように。写真の中にしか存在しない静香さんのように。
 それは、それだけは、嫌だった。

 上総を送り出してから、しばらくしてお父さんの出勤も見送った。誰もいない家の中、そこは身体の弱い私のために暖かく守られていて、そして何よりも退屈な場所。そう思う度に、私はあの猫を思い出す。あんなに可愛がっていたのに、彼女は躊躇いもなく消えてしまった。
 どうしてかわけもなく泣いてしまいたくなる。実際に溢れてきた涙を手の甲でこすりながら、台所から包丁を一本抜き取った。汚れていないそれを一度ダイニングテーブルの上に置いて、自分の部屋からフード付きのパーカーを取ってくる。それに袖を通しながら、長い髪を適当にくくりパーカーの中に押し込めた。そしてズボンを履き替えてもう一度包丁を手に取り、フードを目深にかぶる。ちらりと鏡を見てみれば、街中に張られているポスターの顔にそっくりだった。
 といっても、フードさえかぶってしまえば、誰でも彼のような姿になれるわけで。事実フードの少年を間違えて逮捕するような間抜けな事件も起きているらしい。それも仕方がないことだと思う。
 誰もわからない。彼が私なのか、私が彼なのか。
 きゅ、と唇を引き結びかぶったフードを下ろして、家を出る。この姿ならコンビニに行くだけにしか見えないことは、十分わかっていた。もう何度こうやって家を抜け出たことだろう。
 最初はいつ? わからない。でもきっとまだ彼女がいた頃だ。そのときに彼に出会ったんだから、それからもう何年が経っているのだろう。私と彼の付き合いは長い。上総ですら知らない彼の存在。
 階段を下り神社へと足を向ける。もうそこもすっかりと古びて廃屋のようになってしまっていた。昔上総と遊んだときには確かにそこにあった灯篭は、砕けて色も変わっていた。それを横目で見ながらすたすたと境内を突っ切って、神社の本殿へと足を進める。黄ばんだ障子を開けて暗い床を見れば、そこにだらしなく寝転がっていた少年がまぶしそうに目を細めながら振り返った。
 同じ、顔。
 上総とは違う、私とも違うはずの、同じ顔。強いて言うなら彼の顔はまさに静香さんそのもので、だけれど私たちと同じく彼の目は青かった。上総のよりも当然私のものよりも濃い青色の眼は、彼女のそれによく似ているように思う。それがくすんだ昼の日光を受けて複雑な色へと姿を変えていた。
「また来たの」
「来ちゃ駄目だった?」
「物好きだな。いや、違うか。来たいから来てるだけだもんな、お前」
 興味を失ったように逸らされた彼の視線を追って、私がさっき開けた障子の奥を見つめる。穏やかな日差しがじりじりと障子の色を侵食していく。ただこうやって見ているだけではわからないのに、それでも私はそう思う。
「ねえ」
「ん」
「君は、誰なの」
 知らず、少年のほうへと視線は戻っていた。日差しをまぶしそうに目を細めながら見ていた彼は、上総そっくりの顔を歪ませて笑う。
「知ってるだろ」
 わからなかった。いつから彼と私は知り合ったのか。でもずっとずっと前から知っていることはわかっていた。私の意識が成り立つよりもずっと前から。なら、ねえそれは、どこだというの? 静香さんの子宮の中? そこで私たちは知り合ったのかしら。
 でも私はそれ以上追及することをしなかった。伸びてきた少年の手に隠し持っていた包丁を奪われて、それから指先が私のそれに絡みつく。そう思ったときにはもう駄目だった。視界が一瞬で白くなり私の意識は引き離される。それでも身体のどこかに私の残滓は残っていて、彼が動かす私を、ずっと遠くから見守っていた。
 いつも、こうなる度に思うのは、同じ名前の彼女のこと。
 きっと彼女はこんな風な視線で、私と上総を見守っていたのだろう。彼のように、私のように。
 私の手が動いて、誰かが眠る。それを、私は遠くから見つめていた。声を上げることもなく、ただそれを見守っていた。
 私は、狂っているのだろうか。

 彼はもうこの町に慣れきっているのだろう、何も言わなくとも好きなところにふらりと訪れることができた。だから私があの歩道橋に足を向ければ、彼も黙ってついてきてくれた。別に意味なんてない。そこに、上総の姿があったから、会いたくなっただけ。
 車の音が騒々しい。排気ガスばかり吐き出して、自分の存在を疑問に思うこともないのだろう、なんて楽な道具。騒音が私と彼をいらだたせる。うるさい、うるさい。
 手に持っている包丁が液体のせいでぬめって持ちにくかった。ずるりと滑りそうになるそれを持ち直し、階段を上る。パーカーの中に入れているわけではないのに、上手く影になって見えないのだろう、人々はまだ誰も気づいていなかった。
 車の音が、ゆっくりと止む。顔を上げて、上総の目を射抜いた。
「な」
 小さな呟きが聞こえた。手の中にいるのは白い毛むくじゃら。その真っ白の中で、青い目が彼女そっくりに私を見つめていた。彼ではなく、私を。
 ああ、きっと君も、梓なんだね。
「可愛い猫」
 歌うように囁いて、上総の目の前で微笑んだ。こんなフードはどこまで隠してくれる? 上総が見るのは私だろうか、それとも彼?
「ね、カズ」
 呆然とする兄の手から白い猫を抱きとって、穏やかに笑う。少しだけ鼻を押し付ければ、心苦しくなるような懐かしい匂いが漂った。ああ、懐かしい彼女とおんなじ匂い。
 上総は彼を知らない。だから、上総が呟くのは私の名前しかないのだ。
「あ、ず……?」
「ありがとうカズ。可愛い子猫。ここだときっと話せないから、神社で待ってるね」
 人が集まってきているのは知っていた。彼は私を従えて、躊躇いもなくその中を走り去る。手に持っている温かな命が、愛しくて切なくて、私は少し笑ってしまう。
 この手は誰のものだろう。私? それとも彼?
 おとなしく抱きしめられたままの猫は、何も知らないかのような声で、にーと鳴いた。

 神社について、猫は私の腕から飛び降りた。そして懐かしい彼女の特等席に腰掛けて、その母親めいた視線を私に向けた。ゆっくりと彼が私と離れるのを、見守っていた。
「限界、だな」
 ぽつりと呟く彼の声が、どこか遠くに聞こえた。そのときになって、私は泥まみれの紅葉の中に倒れこんでいることに気がつく。触れる泥や草が冷たくて、切れた肌が痛んだ。頬を撫でる風が寒くて、ぶるりと身体を震わせる。痛い、という感覚が、ひどく懐かしいもののように感じられた。
「私、死ぬの」
「ああ」
 問いかけに応える声には何の感情も込められていない。同情も憐憫も嘲笑すらも、何もない。ただその事実に応えただけのようだった。上総に似てるのに、彼は上総じゃない。上総よりももっと似ている静香さんでもない。
「今日は、何人殺したの」
 穏やかに問う。黙って私を見下ろしていた彼は、あっさりと答えた。
「三人。見てただろ」
「うん。いつもより少ないのは、私が限界だったから?」
 彼が誰なのか、私にはわからない。静香さんの子宮の中で死んでしまった存在なのか、私が作り出した幻なのか。
 でもわかるのは、私と彼は同一だということ。
「そうだ」
「このあと、どこに行くの」
「適当に。お前とはもう会わない」
 体が嫌に冷たかった。彼の言葉に頷いて、ぼんやりと空を見上げる。上総が来るのはいつだろう。じっと見つめていた視線が消えて、足音がゆっくりと遠ざかっていった。
 手の中には、まだぬめっている包丁。それを泥の中に放りだして、少しだけ笑った。ああ、こんなに汚したらカズに怒られちゃうな。
 近づいてくる足音を聞いて、安堵めいた笑みが口元に浮かんだ。どうしてだろう、こんなにも寒くて冷たくて痛くてつらいのに、私はどうしてか幸せだった。
「ああ、カズ。来てくれたんだね」
 上総の顔が泣きそうに歪む。どうしてカズが悲しそうな顔をするんだろう。私がいなくなることを、悲しんでくれるの?
 梓がいなくなったことを、忘れてしまったくせに。
「あ、ずさ」
「私ね、カズの思ってるような妹じゃ、ないんだよ」
 上総の声をまるで聞いていないかのように、歌う。
 ねえカズ。知ってる? 私ね、君が嫌いなんだ。覚えていないでしょう、私と同じ名前の猫がいたことなんか。彼女にどれほど愛されていたかなんて、覚えていないでしょう。静香さんがそこにいるのに、まるで気づいていない君が、嫌いなんだよ。
 でも、忘れて欲しくなかった。
 静香さんにそっくりな、私と同じ名前の猫のことを、私を。いつまでも忘れないで、愛していて欲しかった。どこまでも私を甘やかして欲しかった。
 嫌いなんて嘘だよ。好きだよ。上総が私を甘やかしてくれる度に、梓を忘れた君が憎くて、苦しかったんだよ。
 視界が歪む。目頭が熱くなって、あふれ出た涙はどこかに流れていった。きっと泥に混じってもう何もわからなくなるのだろう、車のように。
「ごめんね」
 気位の高そうな青い目が、穏やかに私たちを見つめていた。もっと側にいてあげられなくてごめんね、静香さん。もっと、愛してあげられなかった。
 私の意識が消え入る寸前に、目に入ったのは。
 静香さんのそれではなくて、唯一無二の双子の兄の、青。
 私の好きな、色。

 青い目の君を、愛した。



いつぞやの部誌に掲載。初の上下もの。

DESIGN BY X103