T What are you name?  ――1

 リシャークス。
 北西部に位置するレスティン公爵家の領土の名前であり、同時に格差社会の典型である都市の名でもあった。王都や他地域でこの地方の話題になったら、人々は口々にこう語るだろう。「リシャークス? ああ、あの貴族様々レスティン公爵のところか」
 そんな公爵家の庭の茂みから横の道路へ、唐突に蜂蜜色の少年――否、少女だろうか――が転がるように現れた。
 少年にしては長めのヴァニラ色の髪を首の後ろで軽く結わき、仕立ての良い上品なブラウスを身に付けていた。一目で貴族の子供だと分かる格好だ。
「痛かったわ……。あまり無理して外に出てはいけないわね」
 小さな身体を起こし、土の付いてしまったブラウスやスラックスを軽く払いながら、その高い声は少しませた口調で呟いた。
「ダイナも連れて来てやればよかったわ。あたしったらいっつも大事なことを忘れちゃうんだから。これじゃ阿呆鳥に罵られたって言い返せないわ」
 独り言をぶつぶつと呟き少女はハッとする。慌てて自分の口をその小さな手で防いだ。幼いながらにも貴族としての教養をよく学んでいたらしく、独り言のはしたなさを思い出したようだ。
 それでも人の多い道路で動かないわけにもいかず、少女は顔を上げて当然のように人の間をかきわけて北東の方、スラムに向かう。たった今教養を思い出したばかりであるにも関わらず、少女はまた明るい口調で独り言を呟き始めた。
「さてと、こないだリズやアレク、ポールと遊べたからきっと今日もいるに違いないわ。多分いつもの空き地にいるわね。あたしってばお菓子は持ったかしら? ええちゃんとポケットに入ってるわ」
 そう言いながら少女はぽんぽんと自分の右ポケットを叩く。ポケットの中に少女の言うとおりお菓子がたくさん入っているようで、はたかれた拍子にぽん、とジェリービーンズが転げ落ちた。少女は慌ててそれを拾って、無意識のように口に含みながら思い出すように呟く。
「それにしてもあの子は一体誰かしら。黒い髪の綺麗な青い目をして、――ええそう、ああいう色を、確かミッドナイトブルーと言うのよ。いつもリズ達をあの綺麗な目で見てたわ。今日こそはちゃんと遊ばなくちゃ」
 その上品な身なりからしてこの少女が、リシャークスにおける頂点レスティン公爵家の人間であることは想像に容易い。では同じ貴族の少女達と遊ぶのだろうか?
「今回はたくさん遊べるように服もようやく男の子のものにしたから、泥だらけになれるわ。いっつもアレク達ばかりずるいもの。女が泥まみれになっちゃいけないなんて誰がいったのよ」
 少女が向かっているのはスラム街。貴族どころか一般庶民すら中々立ち入ろうとはしない、貧乏な子供たちや大人が何十人と存在する荒廃的な場所だ。かたや少女は貴族。受け入れられるはずのない立場にも関わらず少女は無邪気に笑う。
 が、不意に彼女の表情がわずかに曇る。その淡い碧眼が視界に捕らえたのは、立ち上る嫌な色の煙だった。元々リシャークスは工場から多量の煙が上りいつも灰色の空なのだが、その煙はその灰よりなお濃く。
「何の煙かしら……」
 呟きながら表情は晴れない。人の波に飲まれながら歩いていたのが、少女は突然我慢できなくなったように人々を押し退けて走りだした。恐怖が張り付いたような怯えた顔で。
 不意にがらりと人々の雰囲気が変わる。ざわざわと嫌な音を伴ってその言葉は少女の耳に飛び込んできた。
「スラムで粛清だってよ」
「本当? またたくさん人が死ぬのね……」
「またあの貴族様だと!」
「レスティンなんかくたばればいい」
「子供たちを殺すのかしら」
 どくん、と少女のちっぽけな心臓が強く音を立てた。泣き出しそうな顔は引きつり、不安な絶叫をあげないように唇を噛み締める。
 どういうこと。どうして子供が死ぬの。粛清って何。

 お父様は何をしたの?



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