T What are you name?  ――2

 格差社会には必ず搾取する側と搾取される側が存在する。今のこのご時世では前者が貴族と僧侶、後者が農奴や庶民であることは明らかだ。そしてそれが何より謙虚に表れ平民たちが最も忌む都市、リシャークス。少女や彼女の友人達はそんな世界の住人である。
 当の少女の名前を、アリス・レスティンという。この街で最も嫌われているあの公爵の息女であった。彼女は愚かな支配者である父をこの世で一番憎んでいた。
 すべて自分の思った通りに事が進まないと、そうなった原因を躊躇なく殺す。まるで自分以外の存在は生きる価値がないと主張しているかのように、一切の容赦もなく殺す。一度失敗しただけでも駄目だ。そんな馬鹿なことはあり得ない。人の命は父の言葉一つで喪われていいものではない。
 勿論命だけでなく土地も。何十年と時間を掛けて作り上げた豊かな土壌や、人々が住む場所さえもあの男は躊躇いもなく奪い取ってみせるのだ。
 けれどアリスは実際にその姿を見たわけではない。どうにか仲良くなれたスラムの友人や大人たちから聞いた。勿論自分があの男の娘であることを知らせた上で。一度ならず殺されかけたから、だからこそ彼らの憎しみを理解していた。
 嫌いだ。あんな人。
 だけど今のアリスにはどうすることもできない。父は女が教養を得ることを嫌い、特に跡継ぎですらないアリスは学校に通わせてもらえなかった。今ついてくれている家庭教師に頼み込んで、たくさんの本を手に入れひたすらに勉強をしていた。そうしたからこそアリスは父のやる行為の意味が分かってしまった。
 だから、嫌い。
 どんなに時間を掛けてでもいい、どうにか壊すのだ。
 父の腐ったその考えを残酷なまでにばらばらに。
 だけど、だけど。
 アリスは必死に駈けながら泣きだしそうに思う。

 先に壊されるのは、あたしかもしれない。


 スラムへの入り口だったそこは、まるで巨大な車が突進したかのようにぼろぼろだった。スラムに住んでいるわけではないらしい野次馬が数人、その先を覗き見てからひそひそと恐ろしい言葉を発しながら去っていく。アリスはそこに一人、言葉もなく立ちすくんでいた。
 建てられたレンガ造りの家は音もなく静かに廃墟と化し、レンガがまるでバターになったかのような穴ができていた。嫌な、薄気味悪い生暖かな風が吹いて、埃まみれの砂を撒く。顔にかかったそれを拭いながらアリスはその怯えた目を前方に向けた。いつもなら五月蝿いと思う程の喧騒がまるで夢だったかのように、人の気配がしなかった。ぞわりと、恐怖が足を撫でる。
 ちっとも歩きだそうとしない自分の足を、泣きだしそうになりながらアリスは必死に進ませた。
「い、嫌な予感なんて、あたしは信じない、わ。そんなもの都合のいい迷信よ。虫の知らせなんて、あるわけないじゃない。……だって、嘘よ」
 視界に入る悲惨な現状と胸がむかつくような悪臭に耐え、アリスは絶望的な声を漏らす。
 夢を、見ていたのだ。
 やっと七つになったばかりの少女ははっきりと理解した。
 スラムの人々の言葉を信じていなかったわけではない。だけど、そこには誇張があると信じていた。いくら父であろうとも、そんな人でないようなことをするなんてあるわけがないと。あたしをどれほど憎んでいるかを伝えるために誇張したのだと。
 あんたの父親は最低だね、生きる価値もない。それはあんたも一緒なんだよ、アリス。
 リズの母親が吐き捨てるように投げつけたその言葉が、不意にアリスの心を揺さ振った。
 知らなかった。知らなかった、知らなかったあたしは。
 崩れたレンガにつまずいて転んだ。手のついた土は何か液体を含んでべちゃりと音を立てた。垣根を越えたときに出来た小さな傷跡しかない白い手に、どろりと濃厚な赤が浮かび上がる。
「嘘……、よ……」
 夢だったのだ。
 いつか一度この上なく優しい眼差しをアリスに向けて、微笑んだあの男。父というかけがえのない存在は、だけど。
 赤の先をぼやけた目で追う。横たわる柔らかな少し泥のこびりついた栗毛。開かれた灰色の目は、紛れもない恐怖を映してただそこに在った。
「リ、ズ」
 近寄る。真っ白い頬を撫でる。既にそれは硬く冷たくなり始めていた。アリスの手に付いた赤が、リズの白に伝わった。
 顔を上げる。近くにポールがやはり何もいわずに横たわっていた。見開かれたくすんだ緑。優しかったその目は苦痛に歪み、もう自分の意志で動くことのない唇から血が流れていた。
「嘘……」
 これが、これが本当に? 本当に父が?
 信じたくない現状にアリスは声を震わせる。その時唐突に聞き慣れた連射する銃の音が鳴り響き、はっと顔を上げて音のした方向を見た。広場になっているそこはちょうど崩れた瓦礫が視界を遮り、窺うことができない。心臓が、早鐘のように鳴り始めた。
 ふらふらと力なく立ち上がりアリスはそちらを見やる。行くことを望む自分と怯え進むことを拒絶する自分がいた。
「行かなきゃ」
 何故そう思うのか分からない。むしろ逃げ出したい。何も知らないふりをして家に帰って眠ってしまいたい。
 けどその家は? 一体誰が建てた? 一体どこからそのお金が?
 考えるまでもない。この子たち、この人たちから奪い取ったのだ。
 あたしは何を知っている? スラムの人たちの生活、貴族としての贅沢な生活、お金の流れる原理。悪は誰か正義は誰か。
 では何をすればいい。
 考えるまでもなかった。見なければいけないこの現状を。こうなる理由を、この許されざる悪を。



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