T What are you name?  ――3

 足を、動かして前に進む。アリスの大きな空色の瞳に、悪夢が広がった。
 折り重なるようにして横たわる幾人もの人。くすんだ赤いペンキがぶちまけられたようだ。灰色と赤の塊のようなそれを取り囲む、父や彼の部下たちはただそれをまるで物のように見つめていた。
「これで終わりだな? ヨハン」
 父の退屈そうな声がそう尋ね、側にいる長身の男が頷きながら応える。
「そうなりますね。ですがよろしいのですか、この子供を生かしておいて」
 生きている? 咄嗟にヨハンが顎で指したほうを見ると、赤毛と黒髪が見えた。
「……!!」
 名前を叫びそうになって口をふさぐ。アレクといつもじっと彼らを見ていた黒髪の少年だった。生きていたのだ。アリスは安堵のあまり深いため息を零す。けれどよくアレクのほうを見て、ずるりと崩れ落ちた。
 アレクは黒髪の少年を守るように蹲ったまま、既に事切れていた。あんなに撃たれて生きていられる人間なんていない。そんなもの、存在するとしたなら『ハンプティ・ダンプティ』か王でしか在り得ない。アレクは、ただの人間だ。なんてことのない生意気で勝気で喧嘩っ早い、ただの、子供。ただの、大事な他人。
 何で。アレクが一体何をしたの。
 堪えようのない怒りが湧き上がり、それは熱い涙となってアリスの頬を流れ落ちる。怒りで頭が真っ白だった。父親が許せなくて憎くて苦しくて、足元に落ちていた鉄の棒を掴んで立ち上がろうとする。けれど不意にざわりと空気が変わった気がしてアリスは涙の眼差しを広場に向けて、言葉を亡くした。
 アレクに守られるようにして蹲っていた黒髪が、ずるり、とその身を起こしたのだ。そして自分の上に横たわる少年を見て、自分の手に付いた赤を見て、全てを理解したかのようにその夜の瞳を父に向けた。狂おしいほどの憎悪を抱いた強烈な視線だった。それを、自分が向けられたわけでもないのにも関わらず、アリスや父の部下たちはぞくりとその身を震わせた。
「何だ、その目は」
 父の静かな怒気の含んだ声がして、アリスははっとする。駄目だ、このままではあの少年は死んでしまう。いけない、そう頭が警報を鳴らすのに、少女は足を踏み出すことができなかった。少年の射殺すような眼差しに捕らわれたように。
「ヨハン、銃を貸せ」
「……え? いや、しかし……」
「いいから貸せ!」
 ヨハンの手から銃が奪われたのを目視するより早く、アリスは鉄の棒すら放り出して飛び出した。駄目、だめ!
「止めて!!!」

 パンッ――――。

 鋭い射撃音と共に何かがアリスの眼前をかすめて、少年の右目に当たった。嫌な、いやな臭いと音を交えて、斜め後ろで少年が崩れ落ちる。声にならない叫びが耳をつんざいた。それが少年のものなのか、自分のものなのか分からないまま、アリスは振り返って少年に駆け寄った。
「いや、いや駄目よだめ! 死んじゃだめ!」
 痛ましい傷に気を失いそうになりながら、アリスは自分の襟の赤いリボンを解いて少年の傷を必死に抑える。どうすればいいのか分からなかった。彼女が読んだ本の中には銃で撃たれた傷の処置法なんて載っていなかった。そしてアリスの世界では銃で人が撃たれるなどという事は、絶対に起こりえないことだった。
「お願い死なないで! 死なないで助けて、誰か、誰か!」
 自分のほうに近づいてくる足音すら気にかけず、少女は絶叫を上げ続ける。自分の白い肌や高価なブラウスに鮮血が染み付くことすら、気にかけず少年の右目を抑えたまま涙をぼとぼととこぼして。
「助けて、誰か、誰か助けて!!」
 叫び続ける少女の髪が不意に引っ張られ、そのまま引きずり出される。そして眼前に銃を突きつけられた。
「アリス? どうして君がここに……」
 ヨハンの質問が終わる前に、アリスはいきなりその頬をはたかれた。突然襲った理不尽な苦痛とそれを行った人物の上げる声に、相手を視界に入れることを身体が拒む。全てを理解することを拒否しようとしていた。
「アリス、何故お前がここにいる? 来てはいけないと言ったはずだが」
 父の、怒りに震える声が上から降りかかってくる。それは七つの少女にとってはとてつもないほどの重さで。
「スラムに住む人間には関わるな。言ったはずだな? アリス。応えなさい」
 叱りつける様な口調はけれど相手の意思を封じ込めて、自分の思い通りにするための声だった。いつもこの男が使う声。誰に対しても、愛していたはずの母に対してさえ使うこの声。きっと部下にだって友人と称している人間にさえ使うのだろう。
 アリスは静かに一度目をつむり、それから顔を上げた。真っ直ぐに父を、醜く声を荒げ造り上げた仮面を惜しげもなく曝す支配者を、睨みつける。それを横で見ていたヨハンはぞっと背筋が凍りついた。あの少年と同じだ。この少女の空色の美しい瞳は、けれどあの夜の瞳と同じように強烈なまでの憎悪が張り付いていた。
 それを向けられて分からないわけもなく、父は自分の娘を強く殴りつけた。アリスの細い華奢な身体はあっけなく崩れ落ち、それでも意識を失わないように地面にしがみつく。少年は、無事だろうか。アレクが、あたしが好きだったアレクが、命をかけてまで守ったあの子は。
「ふざけるな! 親に対してなんて目を向けるんだ! ヨハン、そいつを家の地下に閉じ込めておけ」
「し、しかし」
「分かったな!?」
 怒声が部下の耳をぶちヨハンは顔を歪めながら、必死に少年を庇おうとする少女に目を向ける。アリスは少年に辿り着くと、その蒼白な顔に意識を呼び戻そうと必死に呼びかけ続けていた。父の声など聞こえないように。彼女の父親はそれを汚らわしいものでも見るように睨み付けると、足音も荒くその場を立ち去った。それすらも耳に入らないように、アリスは少年に声をかけ続ける。
 その様は死に逝こうとする人間を、呼び止めようとする小さな天使のようだった。
「ねえ、目を覚まして頂戴。お願いよ、お願い。あなたは絶対助けるわ。絶対に、絶対に助けるから。だからお願い目を覚まして。そして教えて、あなたの名前、好きなこと、好きなもの。ねえ、お願い、目を覚まして……」
 決してヨハンのほうを振り向かない。それは少年を救わないことを理解しているからだった。この子を助けるにはあたしが諦めては駄目なのだ。涙や鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、アリスは懸命に少年を呼び続ける。名前も知らない少年を。
「アリス」
 不意にぽん、と肩を叩かれて少女は弾かれたように少年を抱きしめる。咄嗟にその少年を守ろうとしたのだろうか。ブラウスに少年の傷からとくとくと零れる血が染み込む。あたしが抱きしめていたらヨハンは少年を撃てない。それくらいは分かっていた。だから抱きしめて、そして静かに脈打つ音に、息を呑む。
「アリス、もう諦めて放すんだ。その子はもう助かりゃしないよ」
「いいえ、いいえ! 助かるわ! 鼓動が聞こえるもの、大丈夫、大丈夫よ、絶対にあたしが守るから。あたしがあなたを守るから、だから」
 言い募るアリスの耳には確かな心臓の拍動が聞こえていた。そしてゆっくりと、少年の蒼白な顔にわずかな血の気が戻ってくる。アリスは少年を抱き上げようとして、けれど持ち上げることができずに座り込んだ。この身体では、この幼さでは、どうすることもできない。信じられないほどの無力さに心が蝕まれる。これじゃあ、助ける事なんてできやしない、これだから、リズたちは死んでしまった。
 そう、死んでしまった。
「アリス」
 もう一度名前を呼ばれて、それでもアリスは少年を放そうとはしない。その空色の目をこれ以上ないほどに冷酷にしてヨハンを睨み上げた。その、自分よりも数十歳幼い少女の瞳に気圧されながら、彼は顔を歪めて呟いた。
「今は家に戻りなさい」
「嫌よ」
「その子を助けたいんだろう。今は言う事を聞いてくれ」
 小さな声は信じられるものか? アリスの目が相手の底を見透かせそうなほどに透明になる。抱きしめる腕の中で、わずかに何かが動いた気がして一瞬にして少女はその瞳を少年に向けた。
 アリスの小さな腕の中で、少年は苦しそうに顔を歪ませる。それを見て、安堵と絶望と後悔がぐちゃぐちゃになって、アリスは静かに涙をこぼした。
 そして、少年の耳元に、小さな言葉を残す。

「                  」

 それが、最初の約束。



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