U The blue is the truth.  ――1

 鴉の濡れ羽のような黒い髪の間から、夜色の瞳が垣間見える。その瞳には赤毛の快活な少年と、彼と仲のいい二人の子供が視界に入っていた。もう一人、最近よくここに来るようになったヴァニラ色の髪の少女の姿はない。けれどその少年はそういった物事について、なんら感情を抱いていないようだった。ただ、ぼんやりと遊びまわる彼らを眺めている。
 不意にその少年の顔に影が落ちる。彼が影を見上げると、空き地で遊んでいる中の少女の母親が立っていた。もとより決して大きい方ではない彼女だが、最近の圧政や過酷な労働により、より小さく細くなったような気がする。あそこで遊ぶ三人の母親代わりで、少年の病がちな母の面倒をよく見てくれる優しい隣人だった。
 少年が見上げたのに気づいたのか、隣人は彼を見て微笑んだ。お世辞にも綺麗とはいえない襤褸を身に纏い、それでもその笑みには少なからず安心を覚える。ここ、スラムの人間はみんなそうだった。
「お母さんは元気かい」
「……」
 答えずに少年はこくりと頷く。もとよりあまり言葉を発するのが好きではない少年だったから、彼女も頷いたことに満足したようだった。
「あんたは遊ばなくていいのかい?」
「……いい」
「そ。まあいつでも遊びにいきな。あいつらだってあんたと遊びたいはずだしね。そうそう、後でアレクと一緒に薪をとりにいっとくれ。今夜は冷えるらしいからね」
「うん」
「リズ! ポール! ちょっと飯作るの手伝っとくれ」
 女は大声で娘と孤児の少年の名を呼んで、駆け寄ってくる彼らを眺めながら、不意にチェシャの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。乱暴な手つきに驚いたように少年は彼女を見上げ、女はその表情を見て楽しそうに笑う。
「いつも顔を下げてるんじゃないよ辛気臭い。たまにはその綺麗な目を上に向けたらどうだい」
「……関係ない」
「そりゃそうだ。薪、頼んだよ。アレク! お前も来なさい」
 スラムの住人は皆一様に他人想いだ。そう彼は思う。赤の他人でしかないのにこんなにも優しい。きっともし何かがあって誰かを犠牲にしなければならないようなとき、彼らは全員で死ぬことを望むのだろう。それを、何と呼ぶのか、少年は知らなかった。
「おい、×××。行こうぜ、薪取りに行くんだろ?」
 そう手を差し伸べられて顔を上げると、赤毛のアレクが立っていた。こいつもそうだ。放っておけばいいのに必ず彼を忘れない。必ず何があっても振り返る。例え彼が声を上げたわけではなくとも、必ず絶叫を上げたいほどの苦痛を味わっているとき、彼は何の迷いもなく振り返ってくれる。それが、その優しさが何か少年には分からない。紛れもない善意なのか、同情からくる優しさなのか、どうしようもないほどの偽善なのか。
 だけど、どうしてだろう。
 ぼんやりと疑問が浮かび上がる。
 彼らの優しさに無条件に救われている気がするのは。
「なーにぼうっとしてんだよ。ほら、早く行こうぜ」
 こつんと頭を小突かれてこくりと頷きながら、赤毛の少年の後を追う。
 スラム街には暖炉がある家が数軒しか存在せず、夜になると誰もがその家々に押しかけて大勢で包まって眠る。チェシャが住む家も暖炉があって、リズとその母それからポールや、アレクが弟と父を連れて、更に数人ほどが暖炉の周りで集まって夜をしのいでいた。一応少年の家ではあるのだが、当の母は身体が弱く息子はまだ幼いため諸々の家事は全てリズの母に一任していた。
 そして大体子供達の中では年上であるアレクと少年が、薪を持ってくる係になっていた。薪といってもスラム街の近くの雑木林に落ちている、湿気ていない乾いた木のことなのだが。
 空はいつの間にか暗い。リシャークスの空は常に灰色で、夜になると濃紺がかった不可思議な色に変わる。その闇の中で木を探すのはなかなか難しいことだったが、アレクも少年も既に何年もやっていることだったから夜目が効くようになっていた。二人で雑木林の中を静かに歩く。
 この雑木林自体も確か小金持ちのものらしいのだが、二人には関係ない。あるものは使う。なければどうにかしなければいけないだけだ。
 ふう、と息を吐いた音がして、ちらりとアレクのほうを見やると、腕に枝を抱えてぼんやりと星も月もない空を見上げていた。なんとなく一緒に見上げる。
「あいつ、貴族なんだってよ」
 突然吐き出された小さな言葉に、何を言われたのか分からなくて、少年は彼を見る。アレクはそのどこか複雑そうな口調のまま、ぽつり、呟く。
「信じられねえよ。何でこんなところに遊びにきてんだよ、あいつ」
 不意に誰のことを言っているのかを、少年は理解した。あの少女、身なりのいい格好をしたヴァニラ色の髪の。
 同時にそれがどういう意味なのかもはっきりと分かって、思わず彼を盗み見た。アレクもそれを分かっているようで、そのそばかすだらけの顔に、困惑を浮かべる。
「分かんねえ。だって、貴族って、こんなとこ来るわけないやつらだろ? 俺は貴族じゃないから分かんねえけど、でも、こんなところに来るような生き物じゃねえんだろ。なのに、何であいつ」
「……言った?」
「言うわけねえよ。親父もリズの母さんも貴族嫌いだろ。そしたらあいつも殴られる」
 淡々とした声だった。だけれどそこにはまぎれもない苛立ちが込められていた。それもそうだろう、彼の母親は娼婦をやっていてそしてそこに来た貴族に殴り殺されたのだ。その、貴族。同類、なのか。
 少年は別段あの少女のことを気にしているわけではなかった。けれどこの大切な友人が、唯一彼のことを忘れないアレクが、少女のことを気にかけているのは分かっていた。その柔らかいブラウンの瞳にどうしようもない想いを乗せて、少女の淡い碧眼を捕らえていたのは。大人なら、なんというだろう。考えるまでもない。
 だが彼らは紛れもなく子供で。
 子供だからこそ持ちえる確かな愛情がそこにあるのだ。だから、だからアレクが少女に恋していることを知っていても、少年は何も言わなかった。少しだけ寂しく思ったりはしたのだけれど。
「ちくしょう。……何で、あいつ、貴族なんだよ……」
 痛切な声に返す言葉を失う。アレクを見てはいけないような気がして、少年は何も言わずに先に歩き出した。



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