U The blue is the truth.  ――2

 その晩のことだった、と思う。よくは覚えていない。
 寝静まった家のぼろぼろの床に数人で雑魚寝しているところを、少年はそっと起き上がって、母が眠る寝台に近づいた。やせ細った母の寝顔はまるで死者のように青白い。すっかり肉が削げ落ちたその頬に汚れた指を這わせた。骨しかないように薄い、皮。
 少年は彼女がいつか死ぬことを理解していた。それがいつになるか分からないまま、ただ二人でひっそりと影のように生きていた。でも、それも恐らく残りわずか。
 せめて静かに眠るように死んで欲しい。苦しんで逝って欲しくない。
 不意にこつこつ、とどこかが叩かれた音がして少年ははっと顔を上げた。少し先にある戸板がわずか、揺れていた。眉をひそめながら眠る彼らを見回し、誰も起きていないのを確認すると静かにそちらに向かって歩き出す。怖いけれど、彼らに害が加わったほうが何千倍も嫌だった。
 風が入り込む戸板を押してあけようとすると、突然手が伸びてきて少年の伸ばした腕を捕まえ、外に引きずり出した。悲鳴をあげる隙もなく放り出され、戸板が音もなく閉じる。少年は思わず後ろに後ずさりながら、引きずり出した手を振り払う。誰、だ。
「おやおや、嫌われてしまったようだね」
 人影が穏やかで優しいテノールを発した。少年の近くにいたメイドが少年を引きずり出した本人だったらしく、振り払われた手を見つめる。その赤い瞳に、少年の背筋はぞくりと粟立つ。なんだ、こいつら。
 彼らはどこぞの貴族のような格好をしていた。少年から離れたところに立つ男は、裾に細やかな刺繍が施されている黒のコートを羽織り、その胸元には血のようなリボンが結ばれている。何より目立つのはその頭髪とメイドと同じ赤い瞳だった。月光下にいるからなのかもしれないが、男の髪は白く煌きまるで銀糸のようで、そしてその銀色の長い睫に縁取られた、赤い瞳。人を殺してきたその血を飲み込んだかのように赤い、その眼。
 これは、人、じゃない。
 メイドがぼんやりと手を見つめているのに気づいた男は、わずかに微笑んで彼女のその手を取った。メイドはその瞳を男に向ける。まるで操り人形のような姿に少年は恐怖を覚えた。
「そんなに怯える必要なんてないよ。安心したまえ、私は君に暴力を振るうつもりはないから」
 少年が怯えているのは暴力という力ではない。男とメイドという奇怪な存在そのものに対して強い恐怖を感じているのだ。けれど男はそれに気づいていないのか、そのままメイドの唇に手を這わせる。妙に艶かしくまるで見てはいけないもののような気がして、少年は気まずげに視線を逸らした。
「……ご主人」
 奇妙に高い歪な声に少年は逸らしたはずの視線を巻き戻した。あのテノールではないなら、これはこれがあのメイドの声だというのだろうか。まるでオイルの注していない機械を無理矢理に動かしたような、甲高く騒音と捕らえてしまいたくなるようなそんな声。
 けれど主人と呼ばれた男はその声にうっとりと赤い瞳を細めた。美しいものを見て聴いて愛でるようなそんな愛しげな瞳は、けれど傍から見ればそれはあまりにも妖しく狂気にまみれた色に見えるのだ。その血のように赤い瞳に少年は気分が悪くなる。おかしい、あいつらはおかしい。
「なんだい、可愛いメアリィ」
「会いに来た、理由」
「おおっとそうだったね、つい失念していたよ。×××」
 名前を呼ばれて少年はびくりとその身を震わせた。けれど赤い光を放つ目から逃れることはできず、かたかたと歯が鳴るのを抑えることができないまま、男とメアリィと呼ばれたメイドを見上げた。何で、こいつらが、俺の名前を知ってるんだ……?
「君は自分が特別だと感じたことはないかな? 何があっても自分は、自分だけは生き残れる、そんなありもしない過信を抱いてやしないか?」
「……何?」
「過信だよ。人間、いや人間だけではないね。王や卵、我らが女王であってもそれは同じ。生きている全ての生き物はたとえどんな天変地異が起ころうとも、自分だけは必ず何があっても死ぬはずがない、とそう思うものだ。いや、否定などしなくていいよ。そうあるのが生き物のあるべき姿なのだから」
 言いながらずっと抱いていたメアリィの腰から手を放し、少年のミッドナイトブルーを真正面に見つめる。それはどんな藍色をも弾き返すように強い、シグナルレッド。強烈すぎる力はまるで引力のように、少年の目を捉えて放さない。
「少年。君も本当は分かっているはずだよ。君やあの子や私、それから半端ではあるけれどこの子も。他とは違う、特異で奇怪な生き物だと。あそこに眠る君の友人たちとは違うと。そう、思ったことはないかな?」
 恐怖が喉にせりあがる。嫌な味が口の中で充満して、吐き出しそうになるのを必死に堪えた。何が怖いのかすら分からない。だけど少年にでも理解できることはあった。
 この言葉を、聞いてはいけない。
「必死に目を逸らす必要なんてないよ。君はその自分を恥じる必要はない。……と、いっても君が私の可愛い手駒になるには一日早いようだね。いけないね、これでは君を無駄に怖がらせただけになってしまう」
 くすり、と妖艶に男は笑んだ。その威圧的な赤に少年は首をがくがくと振る。これ以上聞いていたくなかった。それでも彼のねっとりとした声は耳にまとわりつくように溢れる。
「ふふ、さてあの子とは誰のことか、君は分かっているだろう? 答えてごらんその愛らしい唇で。あの美しく高慢ちきでそれでいて恐れを知らない少女の名前を。
 さあ」
 答えてはいけない。答えたら、答えてしまったら今まで築き上げてきたこの全てが、音を立てて崩れていく。そんな恐怖が喉にはりついて、少年は言葉を喪う。だけれど同時に答えようとするおかしな意志が溢れて、口が静かに開かれる。やめろ、止めろっ!
「……ア、リ……ス」
 メアリィと男の赤い眼が、より一層濃さを増して、鴉の髪の少年を見下ろした。それから彼は満足そうに微笑んでメアリィの腕をすっと絡め取る。
「……何が正しいのか、君の中に流れる偉大なる王の血はよくわかっていらっしゃるようだ。君が彼女を庇おうとするのはよくわかる。誰でもえてしてそういうものだからね。だけれども、何人たりとも王に逆らうことは許されないのだよ。たとえ我らが女王であったとしても」
 信じられないほどの虚無感が心を満たす。なんてことを、なんてことをしてしまったんだろう。何がどうなっているのかもよく分からないけれど少年が今口にしたあの少女の名前は、決して呼ばれてはいけないものだということだけがはっきりと分かった。それを口にしてしまったことの罪深さがじわりと這いよってくるようで、少年の顔に恐怖が張り付く。俺は、……何をしてしまったんだ?
 不意にぎぎ、と鉄のこすれるような声が詩を歌う。
「最初は一つ。王の血を引いていること。
 堕ちる卵は賢くて狂えなくてはいけないね。
 猫さんは妄信的で損なわなくちゃ。
 帽子を作るあの人は正気のままに忘れない。
 壊れた白兎は哀しいからこそ笑うんだったね」
 聞いたことがないその詩だけれど、少年は何故かそのうちの一つが目の前にいる人物を指していることが分かった。顔をもう一度必死に上げる。赤い視線が少年の瞳に絡みつき、その白い髪……。赤い瞳? ずきり、と頭が痛んだ。
 ――兎は寂しがりやなの。だからいつも泣いて、そのせいで目が赤いのよ。
「お前……」
 男にしては赤すぎる唇が吊りあがり、それは半月を描いた。恐ろしいその表情に恐怖が身を啄ばむ。逃げ出したくても足に力が入らない。不意にぐらり、と視界が揺らぐ。何が起こったかもわからないまま、少年はその場に崩れ落ちた。それを半月が見つめて歪に嘲笑った。
「ふふ、そうだよ。どうやら君は随分と賢いようだ。新たな猫君には期待してもいいようだね」
 男の隣でこくり、とメイドが頷く。それを視界に捕らえているのか分からないが、男はより楽しそうに口角を吊り上げた。
「少年。君には期待しているよ。君こそがこんな下らない遊戯を完膚なきまでに破壊してくれることを」
「何を、言って……」
 遊戯? 何のことを言っているのかは、全くといっていいほど理解できていなかった。けれどずきずきと頭は痛み、視界はかすむ。知ってはいけないと身体が拒絶しているのだろうか。不意に強烈な痛みが脳を襲い、少年は顔を歪めてごろりとそのまま地面に転がった。赤い瞳がくすり、と笑う。
「明日、君はようやく損なえる。楽しみにしているよ」
 その言葉を最後に、少年は気を失った。



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