U The blue is the truth.  ――3

「殴られたんだろ?」
「……覚えてない」
 アレクの言葉に少年はぽつり、と返した。ずきずきと頭が割れるように痛むのは、昨晩から変わらない。言葉にできないもやもやが胸の中に溢れて、それが吐き気を催した。嫌だ。
 砂っぽいパンの欠片を渡されて、それを黙々と二人の少年は口に運ぶ。いつも遊ぶ広場では、既にリズとポールが笑顔で泥まみれになりながら遊んでいた。この誰もが死んだような界隈で、子どもたちの笑顔だけは唯一の慰めだ。それも、しばらくして少女は初潮を迎えるとそのまま売春宿に売られることが多く、少年は過酷な労働に身を投じてしまうのだけれど。アレクと少年が恐らくここからいなくなるとするなら、それはもう遠い話ではない。
「無理するなよ」
 頷いた。硬いパンを無理矢理口に押し込める。どうにかして食べなければ飢えるのは自分だ。生唾でどうにか柔らかくさせてから一生懸命咀嚼する。きっと、あの子はそんな思いをしたことがないだろう。そんな卑屈めいた思いを頭を振って追い出す。関係ない。あの子は俺とは関係ない。
 ずきり、とまた頭は痛んだ。
 必死に痛みを押し殺す。こんなものは痛くない。隣にいる友人の悩みに比べたら、こんなもの。
 痛々しいほど必死にそう幼い少年は思い込もうとする。好き、という感情を彼はよく理解できていなかった。ただ仲の良い友人が、そんなにも苦しそうな顔をするから。だから彼は、それを苦しいもの、と認識している。痛くない。だけれど少年の夜の瞳は苦痛に歪む。
「おい、おいっ!」
 肩をがくがくっと揺さぶられて少年ははっと顔を上げる。ただでさえ泥がついて土気色の顔なのに、それがもはや死人のように青くなっていた。自分の顔色が分からない彼は、浅い呼吸をする。何かが、胸に引っかかって離れない。それのせいだろうか。それのせいで、こんなにも苦しいのだろうか。
「お前休んでろよ。本当に体壊しちまうぞ」
 心配そうに声をかけられる。それがすごく申し訳ないと少年は思う。アレクというこの友人は少年の素性を知っていた。そもそもどこから来て、どうしてこうなったのかまで、彼には包み隠さず話していた。体の弱い母を受け入れてもらうには、自分の素性を晒して少しでも優遇されるようにしなければいけない、と子どもながらにも彼にはわかっていた。
「……平気」
 首を振る。これ以上べったりするのは息苦しい。今でさえ、その優しさにどうすれば、どう応えればいいのか分からなくて、いつも心苦しかったのだから。
 空を見上げる。相変わらず太陽の影すら見つからない厚い雲の層は、ちらほらと汚れた灰を降らしていた。いつぞや近隣の街で新たな油が発見されたとき、次の火力のもとになると喜んでいたのが嘘のようだ。それは使用するだけでこのように灰を撒き散らす。それを誰もが知っていながら、けれど誰も止めることはできなかった。もう他の油は使い切られてしまったあとだったから。
 火力発電をしているおじさんが少年に教えてくれたことだ。もう彼もいない。掻き消えるようにしていなくなってしまった。去年のことだった。
 突然、いきなり強い揺れが体を振り落とす。階段から崩れ落ちそうになったところを、アレクに支えられ絶叫を聞く。スラムに住む大勢が、いつの間にか広場に救いを求めるように集まっていた。口々に呟くその言葉。
 粛清。
「リズ、ポール!」
 思わず名前を叫ぶ。人々は半狂乱になりながら、ここに逃げてきてしまったことを後悔するように大声を上げていた。その中で幼い二人は姿が見えない。側にいるアレクの手を強い力で握る。呆然と立っていた彼はその力に、はっとしたようにこちらを振り返った。彼はこくりと頷くと、その場を駆け出そうとした。
 けれどそれは圧倒的な力によって阻まれる。
 絶叫が、耳を覆いたくなるようなほどの悲鳴が、そこかしこから漏れ出していた。同時に漂う臭い、吐き気を催すような悪臭。この匂いは知っている。これは、これは。
 人が、焼ける匂い。
 いつの間にかアレクと少年は、たくさんの人と一緒に広場の真ん中に立っていた。そしてそれを取り囲む、粛清という悪夢ができる人間たち。
 レスティン公爵の、配下。
 手に持っているのは何だろう、あれが、あれが炎を吐き出すのだろうか。
 気持ち悪さのあまり食べたものが喉にせりあがって来る。それをどうにか押さえ込んで、せめて、せめて隣にいる友人を逃がそうと周りを見回す。どこかに、どこかに逃げ道は。スリをしたときのように、どこかに逃げ道は。
「×××」
 名前を呼ばれてはっと隣を振り返る。つないだ手。アレクの手にはたくさん焼け跡が染み付いている。仕事の手伝いをしていたとき、煙草を押し付けられたといっていた。その痛ましい手。自分のがさがさと荒れて、ささくれに泥がこびりついた手。俺なら、俺ならできる。できるはずなのだ。
 絶望的なその感情を理解したように、友人はすっきりとした笑みを浮かべた。
「安心しろよ。お前だけは何があっても逃がすから」
 違う。
 違うんだよ!
 何が始まりだったのだろう。不意に火蓋が切って落とされる。抵抗すらできない圧倒的な暴力。ただ押しのけられる理不尽な殺戮。逃げ出すこともできないまま、少年はアレクに身を伏せているように地面に押し付けられる。悪臭と絶叫。嫌な音、嫌な臭い。全てがすべて、それはもうさながら地獄のように。
 ずしり、と自分の上に何かが乗った気がして、ようやく音が静まったことに気づいた。どのくらいあの音を聞いていたのだろう。感覚が分からないまま、隙間という隙間からどろりとした濃厚な赤が伝う。体をどうにか持ち上げて、そして自分に覆いかぶさるようにして、絶命している大切な友人に気がついた。赤い赤。つないでいた手は? いつのまにか引き剥がされてしまったのだろうか。自分の手と、彼の手を見る。つながったのは、鮮烈に赤いその色だけ。
 嗚呼。
 顔を、上げる。
 自然と、すべてを理解していた。
 忌むべき悪は、誰なのか。
 沸き起こるそれそのままに、悪を真っ直ぐに見つめた。この感情はなんだろう。俺にはもうそれを知る術はない。それを知った大切な存在は、全てすべてこいつが。何かを口走ったようだった。その言葉すら聞こえない。銃を向けられたところで、この感情は変わらない。
 ――殺してやる。
 衝撃がして、それから音と痛みがぶち抜いた。
 パンッ――――。
 今、誰か、誰かいなかったか? あのヴァニラ色の髪の、高慢ちきでそのくせすべてを見透かしたような賢い碧眼を持った少女。後悔が体中を巡る。アレク。俺を殺してでも生き延びるべきだった大切な友人。何で、なんでどうして。
 全てがすべて不明瞭になっていく。
 感覚が泥のように溶け出して、何もかもが分からなくなっていきそうだった。
 けれど、それを引き戻す強い声。ぼたぼたと、何かが目を伝う。熱いそれは何だろう、まるで人間のような。右目があったところがずきずきと痛む。幸か不幸か、少年の目を撃ち抜いたそれは、脳にまで達さなかったのだろう。ただ目があったところが、燃えているように熱かった。既にその目は少年のものではなくなっていた。
 引き戻そうとする声が、叫びが、脳を突き刺す。
 必死に残った目を開ける。
 ただ、ただその涙に満ちた空だけが。
 彼にとっての、真実。



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