V I met an egg.  ――1

「また来たのかい? あんたもとんだ変人だねえ」
 声をかけられて、ヴァニラ色の髪の少年――否、少女は振り向いて苦笑した。
「変人はないでしょう、変人は」
「すき好んでスラム復興に携わろうとする貴族の娘なんて、変人以外の何者でもないさね。今日は何を持ってきたんだい?」
「冬を越すだけの灯油。必要なのはこれだけね」
「できれば他にもいろいろ頼みたいんだけどねえ」
 きっぱりと言い切った彼女に、襤褸を纏った女はあーあと嘆息した。少女、アリスは自分に何ができるか、また、何ができないかをよく理解していた。そして何が彼らにとってもっとも必要か。
 あの、悪夢のようなスラム街の粛清から、七年。何にもできなかった少女は、いまだ何ができるかわからないまま、彼らの前に現れた。散々聞いた罵倒を今でも繰り返し吐き続ける人間はいる。それでいい。憎まれるべきは自分たち。
「そういえば、探してる男の子は見つかったのかい?」
 巨大なタンクから灯油を出して、女に渡すと彼女は思い出したようにそう聞いた。その言葉に暗雲とする。
「見つからないの。もし誰か知ってたら教えてちょうだいね」
「分かってるよ」
「ありがとう」
 探している。そう、アリスはあのとき右目を失った少年を探していた。リズやポールそしてアレクとともにいた、あのミッドナイトブルーの瞳の少年。ヨハンに引き止められてそのまま地下室に閉じ込められたけど、それでもあの子のことは忘れてなかった。忘れるはずもない。目を閉じる。湧き上がる怒りが、視界を白くする。
「……探さなきゃ」
 彼だけがアリスという存在を知っていた。だから誰に泥をかけられようと、誰に罵られ殴られ蹴られようと、彼女がここに訪れないわけにはいかないのだ。どうしてもあの少年に会いたい。
 会って、あってどうするかなんて、まったくわからないのだけれど。
 リズたちアレクたちの話をして一体何になるというのだろう、その加害者は紛れもなく少女なのに。厳密にいえばそれは少女の仕業ではないが、けれど父の行ったあの所業は許されないものだった。だから汗水たらして復興の手伝いをする。父にばれていようが構わない。長い間彼女は自宅であるあの豪邸に、帰ってなどいなかった。
 久々に帰ったのは、昨日だった。
 思い出すだけで胸がむかむかするような、あの豪勢な食事。それを汚らしく喋り散らしながら食べる妹と、おどおどとアリスを心配するように窺う視線を送る姉。そして次女を監視するように見つめる父の目。憎たらしく小汚い卑しい目。
 なぜあれが領主なのだ、その思いばかりが彼女の小さな胸を蔓延する。生きている価値もないような醜い男。何が欲しくてこの領地を賜ったかなど、想像に容易い。リシャークスは工業地帯だ、たくさんの油田が未開発のまま放置されている。王にこびへつらい頼み込む父親の図がにわかに現実味を帯びて想像できて、吐き気さえ催してきた。
「アリス」
 その声で名前を呼ぶな、そう叫びたくなった。抱きしめてもらった記憶も優しい視線を送ってもらった覚えもあるのに、それなのにこれほどまでに憎しみを覚える。だから黙ってフォークを手元に置いて、父親の目をまっすぐに見つめた。遠いこの距離も、今ではただ忌々しく思う。
「またスラムに関わっている、なんてことはないだろうな?」
 少女はじ、と男の目を見つめていた。その碧眼の中に含まれた侮蔑に気づかないはずがないだろうに、父親である公爵は唇を憎々しく歪めただけだった。それをとりなすように少女の母親が公爵の皿に料理をのせるが、どちらもそれには取り合わない。無言で互いの目をにらみつけていた。
 唇を白いナフキンで拭いて、席を立つアリスを咎める者はいない。無邪気な妹が不思議そうに愛らしい顔をこてんとかしげ、口のまわりに食事かすをつけたまま、去ろうとする二番目の姉に声をかけた。
「おねえさま、お食事はおすみになったの?」
 ちら、と通り過ぎようとした次女は、三女のはしたないその姿に眉をひそめ、一つため息をこぼすと卓上に置かれたナフキンで妹の口元をぬぐってやる。それを見て母親はなぜかおびえたような顔をしていた。アリスが可愛くない妹を殺すとでも思ったのだろうか。
「イリーナ、きちんと食べれなければ豚になるわよ」
 そうたしなめるような声は意外と優しい。それを見つめる三組の目を肌でひしひしと感じながら、ナフキンをテーブルに戻して今度こそ歩き出した。部屋を出るときに聞こえた大嫌いな妹の声は。
「ぶたさんはスラムにいる人たちでしょう? イリーナは知ってるもの! イリーナ、ぶたさんじゃないわ!」
 何も知らない子供は、無垢な声でよく知らない知識をひけらかす。子供だからできること、子供だから、何でもかんでも親のいうことを受け入れる。知識を与えるのは絵本よりもまず先に、親の言葉だ。
 灯油を配り終えて一息吐きながら、零れ落ちた汗をぬぐう。もしもアリスがあそこの守られた空間にい続けたならば、きっと得られなかっただろう達成感に知らず少女は目を細めていた。それも自己満足だとはわかっている。誰も彼女がやった些細な施しなど望んでいないのだから。
 求めているのはこんな小さなことではなくて、衣食住が安定した平穏な暮らし。スラムの住人だからといってろくな職にもつけず、ついたとしても過度な労働を強いられ、得られるのは、すずめの涙よりも少ないお金、女性や顔の綺麗な子供にいたってはもっとひどい。十を超えたころから売春宿に売り払われ、望みもしないのに自身の身体をいたぶられる。それもときに親の独断で、だ。
 アリスはあの頃何もわかっていなかった。ただスラムという場所が、虐げられ差別され、苦しめられていたその事実しかわかっていなかった。
 今もそれは何も変わらない。ただ小賢しく余計な知識を身につけただけ。根本的な解決には何もなっていない。それがわかっているのに、自分ができるのは、こんなことだけ。
「おい」
 不意に聞こえたぶっきらぼうな声に、アリスの肩がぴくりと反応した。振り返れば生意気そうな顔の少年がひとり、襤褸布を突き出しながら唇を尖らせていた。その仕草が、どうしてかアレクと重なって見えて、じわりと少女の胸を痛みがにじむ。
「なあに?」
「顔に油ついてんぞ。これでふけって、あの兄ちゃんが」
 アリスは押し付けられたそれを苦笑しながら受け取って、少年が指差したほうをちらりと見た。ここに知り合いなんているはずがないのだから、きっと優しい親切な人だろうな、とそう思った彼女はけれど驚愕に目を見開いた。
 アリスが気づいたことを察したのか、ミッドナイトブルーの瞳は鴉の髪色に隠れて、ついでに姿も消えてしまう。少女が走り出した頃には、もうどこにもいなかった。



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