V I met an egg.  ――2

 あのミッドナイトブルーは、紛れもなく彼だ。そんな確信にも似た思いを抱きながら、アリスはヨハンに手配してもらって借り受けたスラムの近くのアパートに、疲れた足を引きずるようにして帰る。その小さなアパートが公爵の次女にとっての家だった。あの無意味な豪邸よりよほどいい。
 空になったタンクを放置して火などかけられたらたまったものではないから、それも自宅になったアパートに持ち帰る。階下にまたも借り受けた倉庫にしまっておけば、ヨハンが回収して必要になった頃合いに、満タンにして置かれている。どうしてヨハンがアリスを手伝うのか、彼女自身深く考えたことはなかった。ただその痩せた顔に浮かぶ疲労から、彼が彼自身の行為に疲れていることだけは察せられた。
「だったら、いますぐにでもやめればいいのよ」
 ぽつりと落ちた声音はもう何も感じていないかのような温度をしていた。それに気づいていながらアリスは黙々とタンクを倉庫に押し込める。ようやく彼女がすべてのタンクをしまい終えてあたりを見やれば、すでに夕日も暮れて静かな夜の帳が下りようとしていた。右手のスラム街は死に絶えたように静けさを増し、左手の繁華街との騒々しさとあいまって、やけに寂しそうに見えた。
 油でべたつく手を昼間に少年から渡された襤褸布で拭い、アリスはそれをぎゅ、と握り締めた。どうして彼は去っていったのだろう。一声もかけずに、どうして。どうしてもこうしてもないことを彼女自身わかっていた。もしアリスが彼だったなら、こんなものあげることすらいやだろう。あの日の悪夢を思い返すすべてなんて、目の前から消してしまいたいほど、憎い。少なくとも彼女はそうだった。思い出したくなんてなかった。
 でもあれはアリスに対する悪なのだ。忘れてはいけないものなのだ。
 鋭い風が吹きつけて、アリスの首もとのリボンがぶわりと揺れる。ひとくくりにされた長いヴァニラ色の髪が舞い上がり、思わず彼女が首をすくめたその後ろから、突然声は訪れた。
「おやおや、こんなところに公爵家のご令嬢が住んでいるだなんて、冗談だと思っていたんだが、まさかまさか本当だったとハ。こんばんは、アリス嬢、いい夜だネ!」
 甲高い、語尾の跳ね上がる口調。ばっと振り返ったアリスの碧眼が捉えたのは、珍妙な杖を手に抱いて悠々と細い手すりに立つ黒マントの人間だった。杖の先にでんと構えるのは巨大な黄色いくちばしを持つ、オウムだろうか。なんにせよ異様なその姿に彼女は臆したように背後へと足を引いていた。
 顔の左半分を隠す凝った装飾の鋼のマスクに、深い黒のマント。頭の上にかぶっているシルクハットからは、薔薇や草やら生えそろい、手も黒のグローブでもはめているのだろうか真っ黒く、滲み出るかのように出ている白い肌が、闇の中浮き上がって見えた。性別も年齢も感じさせない奇妙なその様子に、アリスは思わずもう一歩足を引く。この人に関わってはいけない。そんな警鐘が頭の中で響き渡っていた。
「おやおや怯えないでおくれヨ! 私は別に怖い人間じゃないサ! アリス嬢の存在を確かめに来たただの王の使者だ、気にせず仕事を続けておくレ!」
「王……?」
 今にも逃げ出したそうに振り返った彼女が聞きとめたのはその単語だった。脳裏には先日勝手に考えていた父の情けなくも下卑た姿が浮かび上がっていた。あの人なら、きっと躊躇いなく跪くのだろう、こんな怪しい人間にでも。なぜなら王はこの世で唯一の存在だから。
「あなたは、誰」
「君はこんな童謡を知らないかイ? 『ハンプティ・ダンプティはだあれだ。ただひとり、王さまのために許された存在、王さまに仕えるただひとり! 頭がよくて理知的で? 狂えるほどに賢くて。君かな、君かな、それとも僕かい? ハンプティ・ダンプティだあれだ』。地方によってちょっと違うみたいだけどネ、王都に近いリシャークスなんかじゃあ、これが普通だろウ?」
 奇妙な格好をした人間はおかしそうに歌い上げる。それは確かに彼――否、彼女だろうか――の言うとおり、リシャークスでもよく知られている童謡だった。くるくると手の中の杖を器用に回し、彼は手すりを踊るようにしてうろうろと歩く。いってしまえば不審者を、けれどアリスは眉をしかめて見つめていた。
「知っているわ。まさかあなたがそれだなんていうつもり?」
「それとはいったい何のことだイ?」
「ハンプティ・ダンプティよ」
「オオーさすがはアリス嬢! 聡い君のことだから絶対にわかってくれると信じていたとモ! 嬉しいヨ!」
 けたけたと甲高い笑い声を上げて、彼はおもむろに立っていた手すりを蹴飛ばした。まるで道化のように軽々と身を翻した彼は、少女の背後にすとんと立ってアリスの両肩に手を置いた。反射的に振り払うこともできずに小さな公爵令嬢は身をこわばらせる。
「君の噂はかねがね聞き及んでいるヨ! もしも君がアリスではなくてただの少女だったなら、私は君に私の後継をお願いしていたに違いなイ! 君ほど思いやりにあふれ慈善意識に富んだ、そして賢い少女はまさにまさにハンプティ・ダンプティの名にふさわしいからネ!」
 アリスは確かに公爵令嬢だ、家庭教師もつけられず学校にも通っていない。それでも彼女は独学で物事を勉強してきた子どもで、そして姉とは違う種類のものではあるが世間を知っている。だからこのハンプティ・ダンプティと名乗る人物の揶揄に、気づかないはずがなかった。
 耳元に吹き込まれた言葉を振り払うように、アリスは前に飛び出して背後を振り返る。仮面で隠されてはいないもうひとつのむき出しの目をにらみつけて、少女は語気も荒く言い放った。
「あなたにどんなに頼まれたって私は絶対にハンプティ・ダンプティなんかにならないわ。王を正すこともできない道化になるくらいなら死んだほうがましよ」
 吐き捨てられた言葉にけれど当の道化はきょとんと彼女を見つめているだけだった。まるで言葉の意味がわからないといいたげな――仮面で半分隠れてしまってはいるが――表情に、アリスはいらだたしげに足元を蹴る。あの重いタンクを持っていくだけでも疲れているのに、王の使者だとほざく道化となんて付き合っていられない。すぐにでもあの古臭い布団の中に身をうずめてしまいたかった。
「聞こえないの? 私はハンプティ・ダンプティにも王にも興味はないわ。今すぐどこかに行って。あなたと話すことなんて何にもないわ」
「本当に何にもないのかイ、アリス嬢? 私は王の使者なんだヨ?」
「しつこいわ。あなたが王の使者だろうがなんでもかまわないけれどもう二度とあなたに会いたいとは思わない。帰って」
「アリス嬢アリス嬢、君はもう少し用心深く物事を考えるべきだとは思わないのかイ? まあでもそれは仕方がないことなのかもしれないネ。君はだってまだ十四歳の少女だ、レディになるには程遠く、政治家になるにもまだまだずっと先のことだもノ」
 ふうとあきれたようにため息をついて彼はマントを持ち上げて笑う。そして杖のオウムでシルクハットを整えると、先ほどよりもずっと強い力で彼を睨むアリスに向けて侮蔑の視線を投げかけた。
「アリス嬢、君がどんなにがんばったところでこの世界はもう終わっていル。君ひとりじゃだあれも救えないのサ。それでも君ががんばりたいのなら、意地を張るよりも王に頼んだほうが早くはないかイ? 君には王に会う資格があるのだかラ」
「……今のこの現状を見もしない王様なんかに、何を頼るっていうのよ」
 ぎり、と歯がきしみそうなぐらい音を立てているのを知りながら、アリスは彼を睨みつける。無駄だ馬鹿だとオウムさえも笑っているように見えた。
 そのアリスの心を見抜いたかのように彼は肩をすくめて笑う。けたけた笑いよりもよっぽど苛立つ笑みだった。
「また来るよ、アリス嬢。無理はしないでおくレ。それから、白兎とチェシャ猫には気をつけるんだヨ」
 そして彼はおもむろにしゃがみこむと、まるでばねのように身体をしならせて夜空へと飛び上がった。あまりにありえない情景にけれどアリスは怒りに任せて怒鳴る。
「何よ御伽噺みたいなことをいって! 馬鹿にしないで! 御伽噺なんかで誰かが救われるわけないじゃない!」
 怒鳴り声は廃墟に似たアパートに反響し、消えていった。



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