誘われる姫君 3

 男の海のように深い目がサロンにいる人間を見渡し、私はわけもわからず震え上がりました。この方です。この方が、お嬢様の決められた定めをめちゃくちゃにする。私にはわかります。この方です。
 だから男の目がお嬢様のもとで留まり、躊躇いなく歩み寄ったことも何の不自然でもないように思いました。そして私はなすすべもなくそれを見守ることしかできません。体はがくがくと情けないほどに震え、声すらもでなかったのですから。
 おどおどとみっともないほどにうろたえているレオノーラ様を認識した陛下は、主催者である彼女の手をとり軽く口付けを落としました。彼女はいっそ面白いほどに顔を赤らめていました。
「このような時分に訪問し申し訳ない。あなたがサイラス公爵家ご息女でよろしいか?」
「は、はい。こ、このような夜会にお越しいただきましてまことにありがとうございます。……す、すぐに父に知らせて参りますわ」
 そのまま手をやんわりと離した少女は、従者と侍女を引き連れて足早にその場を去っていってしまいました。敵前逃亡です、折角のチャンスをふいにしたのです。そう、もし彼女が陛下に見初められていれば、私のお嬢様は、彼の元に嫁ぐことにはならなかったはずなのです。
 陛下は立ち去ったレオノーラ様を最後まで見送ることもなく、お嬢様を振り返りました。その図を見て、サロンにいた誰が歓声めいた吐息をもらさずにいられるのでしょう?
 あまりにも美しいお二人でした。彼らは誰よりも美しく、また誰よりも輝いていらっしゃいました。
 もしも彼が本当に魔王ならば、私とお嬢様は騙されているに違いありません。けれど、私には止めることなどできないのです。
 陛下とお嬢様はしばし見つめ合っていらっしゃいました。高名な画家がもしこの場にいたならば、きっと失神してしまうほど、二人は絵のように整っていたのです。
 先に動いたのはお嬢様でした。
「はじめまして陛下。テルディモアが長子、オレリー・カール・テルディモアと申します。レオノーラの無礼はどうぞお許しください、陛下がいらっしゃるとは存じ上げなかったのです」
 ドレスのすそをつまんで美しく礼をしたまま謝罪する彼女を、陛下はものめずらしいものでも見るかのように見つめていらっしゃいました。いえ違います、あれは。
「あなたが謝ることではないだろう。あなたの噂はかねがね聞いている。父想いの才女に頭を下げられるのは居心地が悪い。顔を上げてはくれないか」
 低く冷たい声でした。しかしその中には確実に喜色が滲んでいるのです。美しいお嬢様に出会えた喜びが。
 そしてそれは、お嬢様も同じ。
 顔を上げたお嬢様はほのかに顔を赤らめながら、恥ずかしそうに微笑んでいらっしゃいました。白い頬を朱に染め上げ、空のような瞳が陛下を見上げておりました。嬉しそうに、幸せそうに。
 お嬢様にとって旦那様の仕事を手伝っていることを褒められるのは、彼女の容姿について褒められることよりよほど幸せなことなのです。しかもお嬢様は旦那様の執務に付き従い、もはや片腕の役割を担っていらっしゃるのでした。民草は彼女のすばらしい才知に期待して、初の女公爵になられることを望んでいるようですが、そして旦那様もそれを考え始めていた頃なのですが、おそらくそれはかなわぬことでしょう。
 陛下はお嬢様に御手を差し出しました。黒の絹の手袋がまるで魔王の手のように、お嬢様を誘っていました。
「折角の舞踏会に壁の花を決め込むのはよくない。踊ろう。あなたの話を聞かせてもらいたい」
 サロン内がにわかに沸き立ちます。いつの間にかホールの貴族たちもお二人の会話に耳をすませているのでした。音楽隊も彼らの役目を忘れ、使用人も侍女も誰もが固唾を呑んでお嬢様の返答を待っているのです。
 お嬢様は誰よりも美しいお嬢様は、晴れやかに微笑んでおっしゃいました。
「私でよければ、喜んで」

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