誘われる姫君 5

 お嬢様と陛下の結婚式は通例にのっとって、本城の裏にある白の教会で行われました。王族と公爵家に名を連ねる者しか参加することが許されていないため、彼らの婚姻を祝福しようとする人々は教会の前庭で赤薔薇を持って待っておりました。このうちのどれくらいの人間が純粋に二人を祝福しようとしているのでしょう? 庭の隅で赤薔薇の花束を抱きながら、教会の扉の近くにぽつねんと立つレオノーラ様を見やります。うつむいて表情を察することはできませんが、彼女が何らかの激情を抱いていることはわかりました。
 イチェリナ皇国には四大公爵家がございます。左翼ユーフェスニア公、右翼テルディモア公に始まり、軍部を司るセシルフラスト公、そして教育を支援するサイラス公。サイラス公のいうところの教育は、あらゆる人材の育成を基本としています。そしてそれは皇太子の母になられることがもっとも多い立場でもあるのでした。現陛下の母君、皇后陛下もサイラス公爵家の娘です。
 つまり、もしあの舞踏会でレオノーラ様が逃げ帰らなければ、そしてその場にお嬢様がいらっしゃらなければ、今イエラ・イチェリナの墓前で陛下と共に愛を告白していたのはレオノーラ様だったのです。
 ですが、例え彼女がお嬢様を殺したいほど憎く思っていたとしても、彼女はそれを実行することなどできません。自身の思いよりも公爵家の言いなりになることのほうが楽な方なのですから。
 いつになく澄んだ冷たい空気がじわりと身体を蝕みます。宙を見上げれば雲ひとつない碧空が広がっておりました。
 ふと、お嬢様が求婚を申し込まれたときのことを思い出しました。あの日お嬢様はいつになく取り乱し、旦那様の部屋から戻られたあと、私の胸に飛び込んでさめざめと泣き出したのです。あの舞踏会から二日が過ぎた夜のことでした。
「どうしよう、どうすればいいのナザリー? どうして私なの?」
「お嬢様」
 泣きながらうわごとのように言葉を口にするお嬢様をなだめながら、静かな声で問いかけます。母親のようにお嬢様の髪を撫でていれば、しばらくしてお嬢様は落ち着いたようでした。ゆっくりと私から離れたお嬢様は泣き腫らした赤い目のまま、健気にも微笑んでいらっしゃいました。その様子に胸を痛めながら、手早く水に浸したナプキンでお嬢様の目元を拭えば、彼女はいつになくされるがままになっていました。
「お嬢様は何をお悩みですか?」
 暖かい飲み物をカップに入れてお嬢様に手渡すと、彼女はそれを受け取ってソファに腰掛けました。晴れはしないほのかに苦い笑みを浮かべながら、お嬢様はおっしゃいました。
「私が王妃になったら、もう政治に関わることができなくなる。それはかまわないの。それくらいなら大丈夫。女としての務めを果たせといわれるのも、国の女性の指針になるのも気にならないわ。でも、でもねナザリー。王妃ではできないことが山ほどあるのよ。私が女公爵になっていたらできることが、王妃になってしまったらできないの。
 もし今、王妃になることを選んだら、私はきっと後悔する。やり残した執務を思って悔やむでしょう、わかるの、わかるのよ。
 なのに離れない。あの人のことが頭から離れない。痛いくらいに苦しいのよ」
 もうわかっていたことですから、私は余計なことは言わなくていいのです。優しくお嬢様にその想いについて教えて差し上げればいいだけなのです。けれどそのとき私はまた、あの胸騒ぎが戻ってきたことを知りました。それも以前よりずっと強い危機感です。
 私の顔色が変わったことに気づいたのでしょうか、お嬢様は顔を上げて目を見張りました。立ち上がって私のほうに近寄ってきます。なんでもないと首を振ろうとして、けれど、耐えられませんでした。
「ナザリー?」
 私よりも華奢なお嬢様を抱きすくめれば、彼女は驚いたように声を上げ、そして私の震えに気がついたようなのです。私をなだめるように小さな手が私の背を撫でてくださいました。
「どうしたの、ナザリー」
「お嬢様、その気持ちは恋というものです」
 お嬢様の言葉を遮っていいました。無論お嬢様もそれくらい存じています。シェルマントンの間にお嬢様が何人の殿方と渡り合ったかも熟知している私だからこそ、はっきりこれをいえるのです。
 彼女のハシバミ色の瞳を見つめて、私は泣きそうになりながらいいました。この言葉を聞いたらお嬢様は頬を赤らめて笑うだろうことを知りながら。
「お嬢様は初恋をなさったのですよ。初めての恋がかなおうとしているのに、どうしてためらう必要があるのでしょう?」
「ナザリー、あなたのそれは本心?」
 低い声が尋ねます。私はそれに気づきながら、必死に笑みを作ってお嬢様を見つめて嘘を吐きました。私が彼女に嘘を吐いたのは、これが初めてのことでした。
「ええ、勿論」

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